泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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書評『騎士団長殺し』/村上春樹 ~ダイソン的吸引力で読者を物語へと引き込む「ほのめかし文学」~

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本と人との関係というのは人間同士の関係と同じで、趣味嗜好は合わなくても友達や恋人になれるというケースが少なからずある。僕にとって村上春樹の作品とは、常にそういう存在であるのかもしれない。この『騎士団長殺し』という作品をいま読み終えて、改めてそう感じている。単純に言ってしまえば趣味はいまいち合わないが、それは別にして作品として面白い、といった按配で。

多くの場合、並んで歩く友人同士は似たようなファッションに身を包みがちであり、逆に夫婦の離婚原因の1位は「性格の不一致」という摩訶不思議な理由である(そんなもの、一致するはずがない)。しかしまったく趣味や価値観の合わない者同士の間にも、もちろん友情や恋愛関係は成立する。むしろ二人の間に生じる「違和感」が良い意味での「刺激」や「補完関係」といったプラスの働きをもたらすこともあるだろう。

村上春樹を語る場合、人は妙にその作品内に登場する趣味嗜好に対して神経質になる。もちろんそれはいわゆる「ツッコミどころ」としては格好の「お題」であるし、あまり考えずとも条件反射的に「好き嫌い」の判断を下しやすい材料ではある。僕も過去作に関して、その点を話題にあげてきたこともあった。

たとえば作中でかかる高尚なクラシック音楽、毎度色まで丁寧に指定される登場人物たちの服装、どこか日本人離れした朝食のメニュー、なぜかどこの家にも設置されているテラスとデッキチェア、記号として用いられるフェティシズム……等々。それら作者の趣味嗜好が投影されているであろう描写を理由に、村上春樹作品を毛嫌いする向きは少なくないし、逆にそこをこそ信奉するファンも数多いるはずだ。

私は台所に戻り、コーヒーメーカーでコーヒーをつくって飲んだ。固くなりかけたスコーンをトースターで温めて食べた。それからテラスに出て朝の空気を吸い、手すりにもたれて、谷の向かい側の免色の家を眺めた。

正直、僕もそういった文化的なディテールに関しては、特に憧れなど感じないし、むしろちょっと距離を置いたところからネタ的に楽しんでいる節もある。「日常におけるリアリティ」というよりは、「ファンタジー作品の設定」として受け止めているというほうが近い。ファンタジーの中にはそのファンタジー内のリアリティというものがある。

フィクションの場合、単に今どきの日常における「あるある」を並べれば、そこにリアリティが生まれるというわけではない。独特な世界観を持つ作品内に下手に日常のリアルを持ち込めば、たとえば水戸黄門スマホに映った印籠をかざすような珍妙なことになる。言うまでもないがリアリティというのは、「作中の表現が現代人の趣味嗜好と一致しているかどうか」というだけの基準で判断されるべきものではない。

リアリティとは、現代の日常生活に照らし合わせて判断するようなその場しのぎのものではなく、もっと普遍的なものだ。司馬遼太郎歴史小説を読んでリアリティを感じるのは、我々が戦国時代を生きているからではない。『魔女の宅急便』を面白いと感じたとしたら、それは身近に魔女の友達がいるからではないだろう。リアリティとは時代や状況を越えて伝わってくる本質的な何かであって、個人の趣味嗜好やその時代の流行といった表面的なものの映し鏡ではない。

そもそもフィクションが、現代社会というちっぽけな一点をバカ正直に反映してみせる必要もない。フィクションには本来、軽々と「現代社会」という窮屈な枠組みを越える力がある。いま現在の自分を取り囲んでいる趣味的な領域内であらゆる物事の良し悪しを判断するのは簡単だが、それは最も狭く、脆弱な判断基準にしかならない。世の中には、「わからないけど面白い」という作品がいくらでもあるのだから。

とかく最近は、「好き嫌い至上主義」がいつの間にやら蔓延していて、受け手が作品に対して抱く「好悪」と作品自体のクオリティとしての「良し悪し」が混同されることが多い。わかりやすく言えば、前者を「主観的評価」、後者を「客観的評価」と言ってしまいたいところだが、もちろんことはそう単純ではない。個人が判断する以上、純粋な意味での客観的評価などあり得ないわけで、厳密に言えば両者ともに「主観」でしかあり得ない。

しかし作品の「好き嫌い」と「良し悪し」は間違いなく別物であり、さらに言えば「好き嫌い」と「面白いか面白くないか」もまた別物である。むしろ本当の意味で「メジャーになる」ということは、単なる好みでついてくる信者的なファンだけではなく、趣味嗜好のまったく合わない層まで取り込んでいくということなのかもしれない。それが結果的なものであるにせよ、最初から狙ったものであるにせよ。

この『騎士団長殺し』という計1000ページ超の大作(いや『1Q84』の時のように、もしかするとさらに第3部もあるのかもしれないが)を読んでいて改めて感じたのは、そういった趣味嗜好を書き込んだディテールの部分ではなく、むしろ村上春樹が構築する「物語」という枠組みの大きな力である。

ここには、先に触れたような個人の趣味嗜好や価値観の差異をものともしない、抗いようのない吸引力がある。その強引なまでの吸引力は、人によっては不快であると感じられるかもしれない。それは「充実した内容」というよりは、一種の「カマし」や「ほのめかし」、もっと言ってしまえば「こけおどし」のように見えるものでもあるから。

今作におけるそういった物語の吸引力は、主にこの先起こるであろう出来事の結果を事前通告する「ほのめかし」の手法によって生まれている。そしてその「ほのめかし」の強度が、読者をそのエピソードの終わりまで確実に引っ張ってゆく。たとえば物語序盤の85ページに、こんな予言的な一節が早くも登場する。

そのときは、その人物がほどなく私の人生に入り込んできて、私の歩む道筋を大きく変えてしまうことになろうとは、もちろん想像もしなかった。彼がいなければこれほどいろんな出来事が私の身に降りかかることはなかったはずだし、またそれと同時にもし彼がいなかったら、あるいは私は暗闇の中で人知れず命を落としていたかもしれないのだ。

もはやネタバレどころの騒ぎではなく、ストーリー序盤でもう物語全体の大筋を全部言ってしまっているのである。これはもう明らかに「ほのめかし」の域を遥かに越えてしまっていると言ってもいい。さすがにここまであからさまに「ほのめかせ」ば、先が気にならないはずがないではないか。

と同時に、この壮大な「ほのめかし」により、「意外な物語展開で驚かす」というオーソドックスな手法が使用不可能になると思われる。それは物語作者にとって、大きなハンデキャップになるはずだ。しかし村上春樹は、あえて事前にゴールをちらつかせることにより、読者がその視野に捉えた目的地へ向けて自発的に走り出すことを優先する。

しかしそれは、作者が「意外な展開」を完全放棄することを意味しない。彼は大枠の展開について「ほのめかし」た上で、その行間で様々な展開を試みる。ゴールはあらかじめ見えていても、そこまでの道のりの自由度が高ければ問題はないと考えている。

さらに言ってしまえば、そもそも冒頭に設置されているプロローグ自体が、もう「全部言っちゃってる」というか、ほとんどこの作品の結論といってもいいくらいの「ほのめかし」の極致なのだが。

そして一方ではまた、そんな壮大な「ほのめかし」の代償として、いつもの如く物語が「竜頭蛇尾」に陥りがちであるのもまた否めない。事前に大きく振りかぶったぶん、提示された謎に対する読者の期待は高まるだけ高まってしまい、とどまるところを知らないそのわがままな期待感は、ラストに至るころにはどのような回答を提示されても満足できないレベルにまで達してしまっている。

これは明らかに「ほのめかし」的手法の弊害であるが、一方でまたその「ほのめかし」による強大な推進力のおかげで読者は物語の最後までなんとか走りきれる、というのも事実だろう。

実際のところ、僕がいつも村上春樹作品に感じる不満はまさにこの「竜頭蛇尾」な傾向で、それは以前『1Q84』のレビューでも触れたはずだが、今回は少なくともいつもよりは読者として気持ちよく最後まで走りきれた気がしている。

しかしそれは、後半の内容がいつもより充実していたというわけでも、提示された謎に対する作者の対応がすっかり腑に落ちたというわけでもない。謎は相変わらずフワッと宙づりにされたままだし、最初から答えを提示するつもりがない作者のスタンスはいつもと変わりない。そこに差があるとすれば、むしろ前半に濫発される「ほのめかし」の力が、いつも以上に強大かつその「程度」が絶妙だったということになるだろうか。

その圧倒的な吸引力が物語の推進力となり、さすがに後半ややテンションは落ちるものの、最後まで読み通させるだけの緊張感は保たれている。いつもならばもっとあら探しをしたくなるところだが、今回は物語の疾走感に気持ちよく身をまかせることができた。

作品というのは不思議なもので、それがつまらなければ読者は細部のあら探しに明け暮れることになるが、全体として面白ければ細かな瑕疵はあまり気にならない。いや気になるとしても、その傷もひっくるめて全体の面白さにつながっていると考える。

『騎士団長殺し』は、端的に言って面白かった。相変わらず趣味嗜好は合わないが、それでも面白いと感じる気持ちに嘘はつけない。


騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

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騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

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短篇小説「河童の一日 其ノ十二」

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河童にだってお洒落は必要だ。でもお洒落にはリスクがつきもので。

学校から帰ると、茨城から流れて来た爺ちゃんが居間で甲羅を磨いていた。人間だと乾布摩擦というのかもしれないが、フォームは同じでもやっていることの意味は全然違う。ボーリングとスカートめくりくらい違う。いやそこまでは違わないかもしれないが違うことは違う。

激しく磨かれることにより艶めいた甲羅は、同族から見てもちょっと気色悪い。背後に回された爺ちゃんの腕が止まった。

「で、お前、ホワイトデーどうすんだ?」

甲羅越しに振り向いて僕を見るなり、爺ちゃんはノーモーションでいきなりそう訊いてきた。気が早いというか年甲斐もないというか、絶対に池上彰に褒められないタイプの愚問に違いない。しかし2月が終わる瞬間にホワイトデーのことを考えているとは、爺ちゃん、案外プレイボーイなのかもしれない。

「どうするも何も、もらってない物は返しようがないじゃん」

お察しのとおり、僕のバレンタインデーは今年も不作だった。てゆうか生まれてこのかた不作も不作、不破万作なわけで、そうなるとさすがに運や気候のせいにするわけにもいかず、そもそも自分自身が単なる不毛の地であることを認めざるを得ない段階。

なのに爺ちゃんはもらうのが当たり前、のようなスタンスでずけずけと成果を訊いてくる。逆にどうやったらモテるのか訊きたいくらいだよ、と僕が拗ねてみせると、爺ちゃんはあっさりとそれを打ち返した。

「そりゃお前、ジャケット着りゃあ一発よ」

そういえば爺ちゃんのジャケット姿を、小学校の入学式のときに見たことがあるのを思い出した。爺ちゃんは爺ちゃんなので、そのときは格好いいとも格好悪いとも思わなかった。しかし河童の勝負服もまた、多くの人間と同じくやはりジャケットであるらしい。

僕ら河童の甲羅が着脱式に出来ているのは、つまりたまにはジャケットに着替えろということなのかもしれない。なんだか急にそんな気がしてきた。いつもはスポーツ用品店で甲羅を購入したり調整してもらったりしているけど、スポーツ用品店で私服を買う男などモテるはずがない。やはり服は服屋で買わなくてはならないのだ。甲羅が服だとすればだが。

そんなことをぐるぐる考えているうちに、爺ちゃんは僕の腕を引っ張って強引に外へと連れ出した。何やら夕飯前にジャケットを買ってやると息巻いている。

電車より遥かに近道(道ではないが)である川を泳いで近所の百貨店に着くと、爺ちゃんは僕を連れて店内を歩き回った。いきなり目的となるショップへ直行せずしばらく徘徊するのには、濡れた体を乾かすという河童的な事情もあって。だがもちろん、乾ききったら死んでしまうんだけど。

それにしても驚いたのは、あちこちのブランド店員が、爺ちゃんを見かけると向こうから慇懃にいちいち挨拶をしてくることだった。爺ちゃんの存在は前から謎だが、茨城に住んでいる爺ちゃんが、しかもそれ以前に僕と同じく河童であるところの爺ちゃんが、東京の百貨店でブイブイ言わしている、なんてことが一体あるものだろうか。しかし実際に声をかけられまくっているのは事実であるわけで。

爺ちゃんは店員の挨拶は受けるものの、それらの店には一切足を踏み入れず、やはり明らかに目的地としているお気に入りのブランドがあるようだった。やがて挨拶攻勢をかいくぐった爺ちゃんは、ある高級ブランドショップへと足を踏み入れた。イタリアのブランド『ドルチェ&カッパーナ』である。

そこで僕は背中の甲羅をはずし、まだうっすらと川の水に濡れた体に何着ものジャケットを次から次へと試着させられた。そして爺ちゃんは僕に、紺地に白いストライプの入った素敵なジャケットを買ってくれた。

僕はジャケットというものを、というか甲羅以外のトップスを初めて着用したので、それが似合っているのか似合っていないのかはさっぱりわからなかったが、爺ちゃんはすっかりご満悦の様子だった。僕はそのジャケットを着用したまま、甲羅をぶら下げて爺ちゃんと家に帰った。

ちなみに試着時にこっそり見た値札には「12万円」と書いてあって仰天したが、爺ちゃんはレジで明らかに1万円しか払っていなかった。どういう仕組みなのかはわからないが、爺ちゃんはやはり何か凄いのかもしれない。

そしていま僕は布団の中、ネギを尻穴に突っ込まれた状態でぶるぶる震えている。家に帰り着くまでの短時間のうちに、ジャケットと背中の合間からがっつり風邪もしくはインフルエンザウイルスをもらったらしい。天井が歪んで見える。

結果、僕は改めて甲羅という物体の持つ防御力および保温力の高さを、逆説的に思い知らされた次第である。「お洒落は我慢」とはよく言ったものだが、河童にとってその「我慢」とは、命に関わるレベルのものであるような気がする。

一方で、爺ちゃんは僕の高熱を知ったお母さんにこっぴどく叱られ、夕飯抜きで即刻ジャケットを返品に行かされていた。しかし河童が着用してびしょ濡れのジャケットをスムーズに返品処理してもらえるあたり、爺ちゃんはやっぱり只者でも只爺でも只河童でもないのかもしれない。

帰ってきた爺ちゃん、「黄桜」でご機嫌に酔っ払って。


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短篇小説「号泣家」

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私は奇妙なことに、泣きながら産まれてきたのだとのちに母親から聞かされた。私がそんな奇抜なスタイルで産まれてきたのは、きっと両親が泣きながら出逢ったからだ。

産まれてこのかた、私はずっと泣いている。何をするときも確実に泣いている。飯を食うときも風呂に入るときも屁をこくときも泣いている。水分はわりとこまめに摂るほうだ。

朝起きたらもう泣いている。きっと寝ている間もずっと泣いているのだろう。しかしよく訊かれるのだが、その涙は悲しみとは基本的に関係がない。なぜならばこの世に生を受けたときも、特に悲しくはなかったように思われるからである。

もちろん産まれた瞬間の記憶などあるはずもないが、もしもまさにいま自分が産まれんとしているその時、産まれること自体に悲しみを感じていたとしたら、じゃあ産まれてなんてくるなよ、としか言えない。

まだ言葉もない赤子が、仮に産まれることを「悲しいこと」として捉えていたとするならば、それは赤ん坊が予知能力を持っていることを自動的に意味するだろう。まだこの世で何も体験していない段階で泣くということは、この先に起こるであろう悲劇を予想して泣いているということになるからだ。

私は産まれるとき、本当に泣いていたのだろうか。あるいは私ではなく母親が、いやむしろ世界が、たとえば全米が泣いたのではないか。

しかしアメリカ人の友達に確認したところ、かつてすべての米国民が全員同時に泣いたという事実は一度もないという。映画配給会社の嘘つきめ。

雨の中、傘を忘れた私が泣きながら歩いていると、向こうから同じく傘も差さず泣きながら歩いてくる女性と目が合った。私はこの人と結婚するのかもしれない、と思った。そうすれば、私たちのあいだに産まれる子供は、きっと泣きながら産まれてくるはずだ。

しかし残念ながら、顔がタイプじゃなかった。こればかりはどうしようもない。


プリズナーズ・イン・パラダイス

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