泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

     〈当ブログは一部アフィリエイト広告を利用しています〉

そんなに気に入ってなかったジャケット

そんなに気に入ってなかったジャケットがなくなった。温度感的にもちょうどいい季節だし、たまにはそれらしい格好でもしようかと思ってクローゼットを覗いてみたら、なぜか忽然と姿を消している。そんなに気に入ってなかったとはいえ、いざなくなったとなれば惜しくもなる。だが何度見直してみても、それが現れる気配はない。

そんなに気に入ってなかったといっても、当初はかなり気に入っていたはずだ。少なくとも店頭で見初めてからレジに向かうまでのあいだは、気に入っていたに違いない。なぜならばだいぶ気に入っていなかったら、それを買うはずがないからだ。

もちろん店員に勧められるがままに、断れずに服を買った経験ならある。だがそんな時代は僕の中でとうの昔に終わった。自分が気に入らなければ結局は着なくなることがわかってからは、そういう買いかたはすっかりしなくなった。消えたジャケットももちろん、そうなって以降に買ったものだ。

しかしそうして自分の意志で買ったからといって、やはり着なくなる服というのはたしかにある。あのジャケットはまさにそんな存在であった。ならば他人に押しつけられて買っても同じであったのかもしれない。

そのジャケットにはポケットがついていなかった。ひとつもポケットのついていないジャケットというのが、世の中にはあるのだ。あるいはそれも着なくなった要因のひとつではあったのかもしれない。なんだかんだでなければ不便なのがポケットというものだ。

もちろん、だからこそ珍しく感じて購入したという可能性も捨てきれない。だが製作者サイドがポケットを省く場合、そこには「洋服本来のラインを綺麗に出したい」という目的があるように思うが、にもかかわらずそのジャケットのシルエットはどうにも野暮ったかった。

なくなったいまになって考えてみれば、これこそがあのジャケットをそんなに気に入ってなかった主たる理由であったように思われる。きっとそうだ。ポケットを省いた甲斐がない。

ジャケットといってもそれはデニム地であったから(といってもGジャンではなく、れっきとしたラペルのあるジャケットである)、その生地の持つ硬さと厚みが、滑らかなシルエットを不可能にしていたのかもしれない。そんな頑なさはポケットを省いたくらいでは、どうにもならなかったというわけだ。

とはいえ洋服のシルエットにも流行があるものだから、思い出したようにクローゼットから取り出してみては、ひょっとするといまならばいけるんじゃないかと、ときに着てみたりすることはあった。実際、昨今はダボッとした野暮ったいシルエットのほうがむしろお洒落、みたいな風潮があるようだから、いまこそが彼の時代であったのかもしれない。

だがそう思ったときに彼はいない。これはなにかしら人生というものを示唆しているような気もするし、そんなことを言えばなんでもかんでも人生を表しているような気もする。

しかしたとえいまあのジャケットが見つかったとしても、やはりそんなには気に入らなかったんじゃないか、そしてまた一度くらいは着てみるにしても、結局は着なくなっていたんじゃないかとも思う。思うというより、それはもはや確信に近い。

そうなるとむしろ、なぜそれがなくなったかというよりも、そしてなぜそれをそんなに気に入らなくなってしまったのかというよりも、そもそもなぜそれを気に入って購入したのかという根本的な疑問が大きい。

だがそればかりはわからない。考えてみれば服に限らず、そういうものは意外と多いような気がする。あれほど吟味に吟味を重ね、試聴を繰り返したうえで厳選して買ったはずのイヤホンも、いまとなっては何がそんなに気に入っていたのかがわからない。別に同価格帯のほかのものでも構わなかったような気がする。

その一方ではまた、なんとなく勢いやまにあわせで選んだものが、いつのまにやら妙にしっくり来ていることもある。それもまた人生というものだろうか。たとえば勤め先の会社だって、そのくらいのものなのかもしれない。

だからこそ自分の意志で何かを選ぶのは難しい。それは経験を重ねるごとに、ますます難しくなってゆくような気がする。すべては結果論に過ぎないのだとすれば、後悔のない選択など不可能だ。それを充分にわかったうえで、なお選ばなければならない。もちろん自分の側が変わってしまう可能性だってある。

そんなに気に入ってなかったジャケットは、いまどこで何をしているのだろうか。なんとなくそう書いてみたところで、そんなには気にならないのだけど。


Copyright © 2008 泣きながら一気に書きました All Rights Reserved.