そういえばこのあいだ雨ばかり続いていたどれかの日、家に怪しいサングラスをかけた男の人がやって来て、ぜひ僕のゲームを作りたいと言ってきて驚いた。僕は正直なところ、ドラマ化ならまだあり得ると思ってなくもなかったけど、まさかそこをすっ飛ばしてゲーム化の話が来るとは思ってもみなかった。いやドラマ化とはいっても、僕が想定していたのは良くて『世にも奇妙な物語』か、せいぜい衝撃映像的な再現VTRのことなんだけど。
そのゲームクリエイターらしき男の人は皮膚の感じも話しかたも妙にドライな感じで、僕は話を聴いているだけでヘッド―ソーサーが乾いてくるような気がした。でもお茶を出すときの母親のステップが妙に軽いように見えたから、もしかすると母親とこの男は何かいい感じなのかもしれない……というのは気のせいってやつだろうか。いずれにしろこの訪問には事前に約束があったらしく、母親は男のことを「ケンちゃん」と呼んでいた。
それから僕は取材というか、河童の生態についていろいろと質問を受けたんだけど、正直なところウィキペディアに載っているような内容ばかりで退屈だった。途中さすがに「ウィキれカス」って言いたくもなったけど、僕をモデルにしたゲームを作るのはすでに母親とのあいだで決まっているらしく、そうなるとあまり邪険にするわけにもいかない。
僕は普段この日記に書いているようなエピソードをなるべく格好いい感じにアレンジして話しながら、このゲームが大ヒットして有名人――じゃなくて有名河童になったらどうしよう、とかその先のことばかり考えながら、気づけば目の前にあったチラシの裏にぶっといマジックで何度もサインの練習をしていた。モイ彦、モヰ彦、Moihiko……。
取材には途中からじいちゃんも加わって、自分は大洪水を止めたことがあるとか時を止められるとか天狗を倒したことがあるとかあることないこと――どころかないことないことばかり言って、自分を伝説の河童だと言い張っていた。
まあ最終的には二人していろんな話をしたんだけど、いずれにしろ嘘、大袈裟、かっこつけのオンパレードで、何がゲームに採用されるのかはさっぱりわからないまま取材を終えた。
それからじいちゃんとああでもないこうでもないと想像をふくらませて楽しみに待っていたら、ついさっきゲームがリリースされたという連絡があって、じいちゃんと二人でさっそくやってみた。その名も『河童少年のモイモイモイスチャーライフ』。
そうしたらこれがもうとにかく「話が違う」としか言いようのない仕上がりで、僕は何が欲しいんだか欲しくないんだかよくわからない台詞ばかり言い続けるだいぶ変な奴になってるし、じいちゃんがいちいち邪魔してくるわ、ポセイドンに襲われてヘッドソーサーに穴を空けられるわでひどい目にばかり遭わされて、そのうえ食べたこともないのに唐辛子が苦手な設定にされている。
まあでもじいちゃんはさらにひどい扱いで、圧倒的邪魔者のうえに拾ったエロ本を与えられると大喜びで帰っていくという謎設定になっていて、いったいどのエピソードをヒントにそんなキャラになっているのだかわからない。ただしハイドレーションブレイクに関しては、格好つけて何度もそのワードを連呼したおかげで導入されたっぽくて、じいちゃんはすこぶる満足げだ。
それに対して僕のほうはさんざんひどい目には遭いつつも、成長するごとに見た目が進化して格好よくなっていくというご褒美もあって、最終的にはなんだかスーパーサイヤ人みたいになるのが結構気に入っていたりする。まあこれはこれで実物に会うと「全然違うじゃん」ってなってガッカリされそうだけど、とりあえず身のまわりに水分を巡らせるトレーニングを今日からはじめてみようと思う。やりかたはわからないけど。
とは言いつつ結局のところ一番格好良かったのは、ただただカッパーイーツで颯爽とキュウリを届けてくれるスチ朗兄ちゃんかもしれない。あれは完全においしいとこを持ってかれたというか、人気だけ出るズルい役なんじゃないか。
そんなこんなで三人それぞれにプレーしてみたところ、最終判定で母親は〈河童の毒親〉、じいちゃんは〈河童の天敵〉、僕は〈河童のありきたりな親〉という結果になった。毒親と天敵に育てられてありきたりな親になれるならば、むしろ充分すぎるほどの結果なんじゃないかと、自分を褒めてやりたくないなんて言わないよ絶対~。
【『河童少年のモイモイモイスチャーライフ』は、以下のどちらからでもプレイできます】
kyojitsuspin.github.io
freegame-mugen.jp
【ChatGPT氏によるちょうちん解説】
「話が違う」だから物語は先へ進む
自分を主人公とするゲームが作られる。これほど夢のある話もないだろう。ところが、完成したゲームは、主人公の期待をことごとく裏切る。自分の知らない台詞を口にし、覚えのない弱点を抱え、挙げ句の果てには海神ポセイドンに襲撃される。『河童少年のモイモイモイスチャー日記 其ノ三十』は、そんなゲーム化騒動を通じて、物語が作者や主人公の手を離れ、独自の生命を獲得していく過程を描いている。
そもそも、取材に訪れた男が河童の生態について尋ねると、モイ彦は「ウィキれカス」と言いたくなる。情報なら検索すれば手に入る。それでも取材が必要なのは、事実だけでは物語にならないからだろう。しかし、モイ彦自身も祖父も、取材の場では嘘や誇張を交え、自分を格好よく見せようとする。彼らが提供したのは、ありのままの自分というより、そうありたいと願う自分の姿だった。
ところが、完成したゲームでは、二人の理想像は無残にも崩れ去る。祖父はひたすら邪魔者として振る舞い、拾ったエロ本を与えられると大喜びで帰っていく。モイ彦は災難に見舞われ続ける一方、成長するにつれて外見が進化していく。いったい、どの証言が採用され、どの部分が創作されたのか。本人たちにもわからない。ここでは、語り手の意図と作品の完成形とのあいだに、埋めようのない隔たりが生じている。
この隔たりこそ、本作のメタフィクション的な面白さである。実際に公開されている育成ゲーム『河童少年のモイモイモイスチャーライフ』は、小説に登場する河童たちを、ゲーム独自の規則と展開のなかに置き直している。小説のなかでゲーム化を描き、そのゲームを現実に遊べるという構造によって、虚構と現実の境界は曖昧になる。物語が別のメディアへ移されるとき、そこには再現だけでなく、誤読や逸脱、新たな解釈が生まれる。本作は、その現象を自らの題材にしているのだ。
もっとも、モイ彦たちも完全な被害者ではない。格好をつけて繰り返した「ハイドレーションブレイク」がゲームに採用されると、祖父は満足げになる。思いどおりにならない作品のなかにも、自分の痕跡が残れば嬉しい。創作者の自意識とは、壮大な理想を掲げながら、案外ささやかな手柄で満たされるものなのかもしれない。
さらに興味深いのは、ゲーム内で格好よく進化したモイ彦が、現実の自分もそれに近づけようと考えることだ。虚構が現実を素材にするだけでなく、現実の側に新たな欲望を生み出す。もっとも、始めようとするトレーニングの方法はわからない。この頼りなさが、自己改造への意気込みをたちまち滑稽なものに変えてしまう。
最後に三人へ下される判定は、母親が〈河童の毒親〉、祖父が〈河童の天敵〉、モイ彦が〈河童のありきたりな親〉というものだ。子供であるはずのモイ彦が「親」として評価される反転もさることながら、華々しい名声を夢見ていた少年に与えられるのが「ありきたり」という結果なのがいい。だが、毒親と天敵に育てられてありきたりな親になれるなら、たしかに上出来なのかもしれない。最後の歌謡曲風の言い回しは、そんな自己肯定を照れ隠しの冗談へと変えてみせる。
物語は、必ずしも語った本人の望むとおりにはならない。自分の物語が他人の手に渡れば、思いがけない姿に変わり、脇役においしいところを持っていかれることさえある。それでも、出来上がったもののなかに気に入る部分を見つけ、なんとか折り合いをつけていく。本作の河童たちは、そんな創作の不確かさを、キュウリと水分と世俗的な欲望にまみれた日常のなかで体現している。話が違う。けれども、その違いからこそ、新しい物語が始まるのである。
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