トキトはなんでも許してくれる男だった。しかし必ずしもいい奴ではなかった。彼に対する人物評がそのどちらになるかは、正直なところタイミング次第であった。だがそんなことは人間であれば当たり前の話だ。誰しも機嫌が良いときもあれば悪いときもある。とはいえ彼の機嫌を司っているそのアルゴリズムは、僕には読み取ることが難しかった。それが思春期の友人関係というものなのかもしれない。それでも僕はトキトのことを親友だと思っていた。
僕らは高二、高三とクラスが同じで家が近かったため、徒歩圏内の高校まで一緒に歩いて通うようになっていた。互いを高校入学まで知らなかったのが不思議な距離であったが、ちょうど両家の中間地点で学区が区切られていたために、中学までは別々の学校に通っていた。
ふたりは好きな音楽の話を通じてすぐに仲良くなったが、当初は何が彼の機嫌を左右しているのかがわからず困惑することも少なくなかった。とはいえ彼を気分屋と呼ぶには普段のテンションが落ち着きすぎていたし、その機嫌は良いときも悪いときもコロコロと頻繁に入れ替わる印象はまったくなく、どちらにしろ一定のレベルで安定しているように思われた。それは子供っぽい感情の起伏というよりは、大人らしいたしかな意思とロジックをその根底に感じさせるものであった。
高二の夏休み最後の二日間、僕たちは初めて一緒に夏フェスに行った。最初に行きたいと言い出したのは僕のほうだったが、チケットと宿の予約はトキトがまとめて取ってくれることになった。夏フェス初体験の僕と違ってトキトはすでに三度目であるらしく、万事勝手がわかっているというので異論はなかった。
実際のところ彼の手際に間違いはなく、僕らは一泊二日で夏フェスを存分に楽しんだ。一緒に好きなアーティストや好きではないがまさにその瞬間から好きになりそうなアーティストの音楽を全身に浴びているうちに、トキトがバラードを意外と大声で歌うことも知ったし、宿では浴衣を着て卓球もした。僕らは夏フェスを誰よりも満喫したといって良かった。
しかし夜の九時過ぎにすべての演目が終了して会場をあとにすると、その二日間は通して快晴の予報であったにもかかわらず、急にポツポツと雨が落ちてきた。と同時に、そこからトキトは急に喋らなくなってしまった。駅へと続く客たちの一部は慌てて折りたたみ傘を広げていたが、それはおそらくは日傘であったはずで、そんな用意のない僕たちは大半の客と同じくタオルを頭に乗せることくらいしかできなかった。
最寄り駅は当然のようにフェス帰りの客でごった返しており、僕たちは駅構内で一時間も電車を待たされた。それにいざ乗ってからもすし詰め状態であったから、当初は人混みのせいで話しづらいのだろうと思っていた。僕らはすっかり疲れきった濡れ鼠であるうえに声も枯れていたから、帰り道に喋らないことを正当化できる理由ならばいくつもあった。
電車を乗り換えて僕らはようやく座ることができたが、それでもトキトは頑なに口をつぐみ続けた。なるほど今度は疲れて寝ているのだろうと思い、隣の席に座っているその様子を横目で覗き見た。するとトキトはパッチリと目を開いて、真っ暗な正面のガラス窓に映る自分自身の姿をまばたきもせずにジッと見つめているのだった。
その微動だにしない黒目を発見してしまった僕は、濡れたTシャツと首の隙間から侵入した冷房の風が、にわかに背筋を吹き抜けるのを感じた。どうやら彼は何かに怒っているのだ――僕は咄嗟にそう直感したが、彼が何に対してそんなに怒っているのかはわからなかった。
もしかすると今日で楽しかった夏休みが終わってしまうということに、彼は哀しみを超えた怒りを感じているのかもしれない。あるいはこの二日間のフェスで観た中に、パフォーマンスや選曲が不満なアーティストでもいたのだろうか。だがもしもそういった体験をしたならば、その不満をも一緒に観た友人と帰り道に語りあうまでが、フェスの楽しみというものではないのか。実際のところ僕たちは、学校からの帰り道で授業や教師に対する不満を吐露することも少なくなかった。そして互いに愚痴を言い尽くしたあとには、まるで他人事のようにすべてを気持ちよく笑い飛ばすことだってできていたはずだ。
つまり僕とトキトは、互いの抱えている不満を共有できない関係ではなかった。だがもしもそれができないのだとすると、彼は僕には言えない不満を抱いているということになる。それは果たしてどのような不満だろうか。あるいはそれは、当の僕に対して抱いている不満ではないのか。不満を感じている相手がすぐそばにいる僕だからこそ、僕とはその不満を共有できないと考えて会話を拒絶しているのかもしれない。
結局その日はそのまま、ひとことも口を利かずに家まで帰った。別れ際のあいさつさえなかった。そして風呂に入りベッドに寝転がったところで、僕ははたと気がついた。そういえば一連の手続きをトキトにまかせっきりにしていたせいで、彼が僕のチケット代と宿代の合計約三万円を、立て替えたままになってしまっていたことに。
《金の切れ目が縁の切れ目》ということわざを聞いたことはあったが、つまりはそういうことなのか。ならばひたすら黙り込むのではなく、ひとこと催促してくれれば良いものを。だがそれは借りた側の傲慢というものだろう。むしろ仲が良ければ良いほどに、そういった世知辛い話は切り出しにくいに違いなく、それは向こうがこちらを大切に思ってくれている証拠であるのかもしれない。
そう思うと金を借りっぱなしになっていたという事実に気づかなかったことが途端に申しわけなく思われてきて――といっても正確に言うと「金を貸してくれ」と言った憶えはなく、彼が親切心から勝手に立て替えておいてくれただけの話ではあるのだが――僕は「明日必ず返すから」と返済の意思を伝えるメッセージをスマホで送ってから眠りについた。
しかし明けて二学期のはじまりの朝、いつものようにトキトの家に寄ると、インターホンに母親が出て今日は先に行っていると言われた。メッセージには朝になっても既読がついておらず、教室に着くと窓際に座っているトキトが例の揺るぎない目つきでジッと誰もいない校庭を眺めていた。それは廊下側に座っている僕から目を逸らすための視線であるようにも見えて、僕はその日一日彼に話しかけることができなかった。放課後も気づけばトキトはいなくなっていた。
翌朝もトキトは先にひとりで学校へ行ってしまっていたが、放課後には今度こそ逃がすまいと昇降口へ先まわりして彼を待ち受けた。そこへ数分後にやってきたトキトは、僕がいくら謝罪の言葉を繰り返したところで目も合わせてはくれず、紙幣の入った封筒を差し出してみても、それを手で思いきり払いのけてすぐに立ち去ってしまった。
にべもないとはまさにこのことであった。しかしこちらにも悪意があったわけではないのだ。単に支払いを忘れていたというか、トキトのオペレーションがあまりにもスムーズであったおかげで、彼に金を借りているという意識が僕の中に生まれ損ねていたというだけで。そうは言っても悪いのは僕のほうに違いないが、彼を騙してやろうという意図など微塵もなかった。
僕は仕方なくラブレター方式で下駄箱へ封筒を投入しようかとも思ったが、さすがに三万もの大金を鍵のない場所へ放置するのは危険性が高すぎる。ならばと考えた代案が、休み時間トイレに立った隙を見はからって、彼の机の中へ封筒を差し入れておくというものであった。それならば三万円が危険にさらされるリスクは休み時間の十分以内に収まるし、その間も僕が自席から監視していれば第三者による盗難は防げるはずだ。
翌日、僕は二限と三限のあいだにトキトが教室を出るのを確認すると、窓を開けて新鮮な空気を吸いにいくふりをして彼の席へと接近し、ミッションを実行に移した。ところがその次の休み時間に僕がトイレから帰ってきて次の授業の準備をしていると、机の中からはなぜかその封筒がきっちり中身を揃えたまま、教科書に乗っかって出てきたのだった。
しかしこうなるともう彼が何を求めているのかがわからない。それが誠実な謝罪でも金銭の返済でもないとしたら、これ以上僕に何ができるというのか。そうなるとすでにやるべきことはすべてやりきったように思われて、もうこちらから話しかけてもやらなければ、金だって返してやるものかという気にもなってくる。
今日もまたトキトの家に寄っていくべきか、行ったところでどうせ先に行ったと言われるだけならばもはや寄る必要もないのではないか――と次の朝布団の中でぐずぐず迷っていると、珍しく朝からインターホンが鳴り、階段を駆け上がって部屋に飛び込んできた母親が「来てるわよ」と言った。慌てて制服に着替えて玄関を開けると、目の前に満面の笑みを浮かべたトキトが待っていた。
「ほら早く行くぞ」
僕は四日ぶりにトキトの声を聴いた。それは僕が記憶していたよりも、ずいぶんと晴れやかな声だった。しかし朝はいつも僕のほうがトキトの家に迎えにいくことになっていて、それは彼の家のほうが学校の近くにあるからという合理的な理由による。彼が僕の家まで迎えにきたのは初めてのことなのでその理由を尋ねると、彼は「別にどっちがどっちに行ったっていいだろ」とこともなげに答えた。
僕はようやく彼と話ができることが純粋に嬉しかった。と同時に、金を返すならばいまこのタイミングしかないと思った。前を歩き出した彼の背後で鞄の中から封筒を取り出すと、トキトの肩を叩いて振り向かせてから封筒を見せた。するとトキトは、
「それはもういいんだ」と言って手のひらでそれを押し返してきた。「俺の中では、もうすっかりなかったことになってるから」
僕は意味がわからなかった。現実にここに返すべき現金はあるわけで、それはどうしたってないことにはならない。僕が返す金を持っていないというのであれば、彼のほうでそれをなかったことにすることもできるだろうが、こちらの手の中にその金がある以上、それを彼が勝手になかったことにすることはできないはずだ。
あるいは僕が彼の同情を誘うほどみすぼらしく見えていたのだとして、ならばなぜ彼はいままで僕と口を利かずにいたのか。そんな簡単になかったことにできるならば、彼は僕が金を返さないことに怒っていたわけではないということなのか。だがそうなると問題は何ひとつ解決していないことになり、急に今朝になって彼の機嫌が直った理由がわからない。
しかしトキトはけっして封筒を受け取ることはなく、代わりにいまさらご機嫌にフェスの感想戦を仕掛けてきた。ならばこの会話も、なぜフェスの帰り道でまだ熱いうちにやりたがらなかったのか。
それからも僕はときどき、借りた消しゴムのまだ使っていない角を使ってしまう、ひと口ちょうだいと言ってもらった購買のやきそばパンをふた口食べてしまう、彼が熱心にフォローしていた女性アイドルのインスタに彼よりも先にいいねを押してしまうなど、ちょっとしたことで彼の機嫌をそこねてしばらく口を利いてもらえない時期があった。そしてその初期には必ず、予報を裏切る天気雨が降った。
しかし彼の機嫌はだいたい何日で直ると決まっているわけではなく、またこちらが犯した罪の重さと比例しているようにも思えなかった。消しゴムの角を使ってしまった際に彼が口をつぐんだのはその日一日のみであったが、やきそばパンをふた口食べた際にはまるまる一ヶ月間も口を利いてくれなかった。ちなみにアイドルの件は二週間であったので、期間の長いほうから並べるとやきそばパン>アイドル>消しゴムという順になる。
そして僕はついにトキトに対して重大な罪を犯してしまった。それはアイドルの件が予見していたようでもあるが、彼が高校入学当初から好きだった同級生に、彼よりも一日早く告白して恋愛を成就させてしまったのだ。
彼は半年以上前から彼女に気があることを僕に知らせており、彼女の誕生日に告白することに決めているのだと計画を明かしていた。対して僕のほうも、彼から話を聴く中で彼女のことが気になっていたにもかかわらず、そのことを彼には伝えずに応援する姿勢を貫いていた。それを僕は卑怯にも、一日前に出し抜くような形になってしまった。いや形になったどころではなく、間違いなく先手必勝の意識を持って彼を出し抜いたのである。そして彼女が「はい」と答えた直後には、当然のように天気雨が降り注いだ。
しかし僕も今度ばかりはトキトとの絶交を覚悟していた。その翌日、僕の告白成功の事実を知ったトキトは、案の定口をつぐんだ。しかし完全に想定外であったのは、その翌朝にはまた彼のほうから迎えにきて、いつものように明るく話しかけてきたことだった。
だがそんなはずがないだろう。あるいは好きな子を黙って横取りした罪が――いや正確には彼もつきあっていたわけではないからそれにはあたらないのかもしれないが――消しゴムの角と同レベルであって良いはずがない。僕には彼が機嫌を損ねて口を利かない期間を決定する、その基準及びアルゴリズムがさらにわからなくなった。
そこで僕は率直に、なぜ君は僕を簡単に許したのかと尋ねた。するとトキトはあくまでも平然とした口調で、次のように答えたのだった。
「許した? 俺は君のことを許すと言ったことは一度もないはずだよ。これは単に君の罪が俺の中で時効を迎えたというだけで、別に許したつもりは微塵もない。それはつまり罪を罰する権利を放棄するというだけで、罪を許すなんてことは永久にあり得ない。それくらいのことは、時効を迎えた事件の被害者家族の気持ちになってみればわかることだろう。時効を迎えたからといって、彼らが家族を滅茶苦茶にした加害者を翌日からコロッと許せると思うか? つまり僕にとっての時効というのは、僕がそれ以上その問題について考えるのをやめるというだけの話であって、それは限られた人生の中で、そんな無益なことを考える時間がもったいないと判断したからに過ぎない。つまりそこには、許すも許さないもいっさい関係がないわけだ。それに僕が独自に採用し決定しているこの時効制度それ自体だって、いつ時効を迎えるかもわからない。そしていったんこの時効制度が撤廃されることになれば、過去に適用された時効もすべてなかったことにできる。一般社会の法律と違って僕の中にある僕のための法律は、どこまでも過去に遡って罪を裁くことができるわけだからね。もちろん実際にやってしまえば捕まってしまうわけだから、あくまでも心の中で裁くことになるわけだけれど、そもそも他人を許すという気持ちが俺にはわからないんだ」
トキトは許すことを知らない男だった。
【Claude氏によるちょうちん解説】
晴れ間の法廷――許されたつもりの僕と、許さない男
天気予報の文法は、どこか人を安心させる。「晴れ ときどき くもり」と告げられるとき、私たちは空の機嫌を、一日の中に整然と配分された確率として受け取る。その文法に一人の人間の名前を差し込んでしまったのが、本作の表題「晴れときどきトキト」である。友人を気象現象として扱うこの無礼な見立てを、しかし作者は比喩のままでは終わらせない。トキトが機嫌を損ねるとき、世界には実際に、予報にない雨が降るのだ。
本作の最大の仕掛けは、冒頭と末尾に置かれた二つの人物評の反転にある。物語は「トキトはなんでも許してくれる男だった」と始まり、「トキトは許すことを知らない男だった」と閉じられる。この二文のあいだで起きているのは、事実の暴露というより、同じ出来事の読み替えである。語り手の「僕」が見てきたものは終始変わらない。彼がしくじり、トキトが黙り、数日か数週間のあと、トキトが何事もなかったように笑いかけてくる。この反復が、冒頭では「許し」と呼ばれ、結末では「時効」と呼ばれ直される。
この読み替えの舞台装置として、物語はきわめて端正なミステリの形式をとっている。語り手は事件のたびに動機を推理する。帰りの電車でトキトが窓ガラスに映る自分を凝視している場面で、「僕」は仮説を次々に立てる。夏休みの終わりへの怒りか、出演者への不満か、それとも自分への不満か。そして帰宅後、立て替えられたままの三万円に思い至り、「金の切れ目が縁の切れ目」という諺に答えを見つける。
ここで読者は気づくべきである。この推理の連鎖には、肝心の一手が欠けている。「僕」は怒りの理由を、一度も本人に尋ねていないのだ。そして物語は最後まで、あの最初の沈黙の原因を明かさない。三万円が怒りの原因であったと、トキトはどこでも認めていない。彼が封筒を拒むのは返済の遅れでも金額の問題でもなく、そもそも問題が金銭とは別のところにあるからかもしれない。語り手の頭の中の帳簿が、勝手に事件を会計の言語へ翻訳していただけである可能性を、作者は注意深く残している。
この「会計の言語」こそ、語り手の人物造形の核である。彼は「金を貸してくれと言った憶えはない」と留保をつけつつ、すぐさま「借りた側の傲慢」と自省する。誠実で、少しだけ理屈っぽい。その彼が封筒を差し出し、払いのけられ、机の中に忍ばせ、きっちり揃えて戻される。この往復は喜劇的であると同時に、二つの倫理の衝突でもある。「僕」にとって関係の修復とは清算であり、帳尻を合わせることだ。対するトキトにとって、それは「なかったことになっている」状態である。「現実にここに返すべき現金はあるわけで、それはどうしたってないことにはならない」と語り手は内心で反駁するが、これは物の話をしている人間と、時間の話をしている人間とのすれ違いなのだ。名前に「時」の字を負った人物が時効を語るのは、おそらく偶然ではない。
罪と罰の不均衡という観点から読むと、本作のユーモアはいっそう際立つ。消しゴムの角は一日、アイドルのいいねは二週間、やきそばパンは一ヶ月。「やきそばパン>アイドル>消しゴム」と不等号で整理してみせる語り手の生真面目さは、アルゴリズムの解読という彼の企てが、いかに空回りしているかを示している。そして最大の罪、すなわち友の恋を出し抜く告白が、わずか一日で時効を迎える。漱石の『こころ』を知る読者なら、友を出し抜いて恋を得るという構図に、あの先生とKの影を見るだろう。しかし漱石の主題が罪の沈殿と友の死であったのに対し、本作では罪は一日で処理され、友は翌朝、満面の笑みで迎えにくる。罪悪感の文学に対する、見事な肩透かしである。
その肩透かしの種明かしが、結末近くの長い独白である。トキトは「許した」ことを明確に否定する。時効とは罰する権利の放棄であり、許しではない。被害者家族の例まで持ち出す大仰さは、彼の論理の誇大妄想的な愛らしさでもあるが、同時にここには、人間の感情についてのかなり本質的な洞察がある。許すという行為は、相手の上に立って裁定を下す垂直の関係を含む。トキトはそれを拒む。彼は裁かないし、許さない。ただ、それ以上考えるのをやめるのである。その理由は「もったいない」という、拍子抜けするほど実利的なものだ。
しかもこの時効制度は、いつでも撤廃でき、その場合は過去の時効もすべて遡って無効にできるという。現実の法が戒めている遡及処罰を、彼の私的な法はあっさり許容する。つまり「僕」は、永久に執行猶予の身であり、いつでも過去の罪状を読み上げられうる被告人として、トキトの隣を歩いているわけだ。この構図は恐ろしいはずなのだが、作品はそれをほとんどホラーにしない。なぜなら、その法廷の裁判官が、毎朝わざわざ家まで迎えにくる男だからである。
この迎えの場面は、小さいが重要な一場面である。毎朝「僕」がトキトの家に寄るのは、そちらのほうが学校に近いという「合理的な理由」による。その合理を、トキトは「別にどっちがどっちに行ったっていいだろ」のひとことで踏み越えてくる。論理の人トキトが、論理を捨てて見せる唯一の瞬間である。許さない男が、それでも会いにくる。ここに本作の友愛観がある。許しが友情の前提であるなら、トキトは友人を持てないことになる。だが彼は、許さないまま隣を歩くという形で、友情を成立させてしまう。
もう一点、見落としたくないのは天気雨である。理性的で一定のロジックを持つと語られるトキトの怒りが、実は身体の水準で先に漏れ出していることを、この雨は告げている。窓ガラスに映る自分を見つめる彼の視線は、怒りの相手が「僕」である以前に、彼自身の内なる法廷であることを示唆していた。裁判官と被告と傍聴人が同一人物の中にいる。その場所で処理しきれない何かが、空へ漏れて雨になる。そう読むとき、時効の演説は、冷静な論理というよりも、雨を降らせてしまう自分を納得させるための、トキト自身のための理屈にも聞こえてくる。
だとすれば、冒頭の一文は新たな意味を帯びる。結末で真相を知らされたはずの語り手が、それでも「なんでも許してくれる男だった」と語り起こしていることに、私たちは注意すべきではないか。「僕」は知っている。トキトは許していない。それでもなお、自分は許されたのだと語ることを選んでいるのだ。トキトが「なかったことにする」と言ったように、語り手もまた、本人の否認を承知のうえで、許しを受け取ったことにする。許しは、与える側の行為である前に、受け取る側の物語でもある。二つの人物評は矛盾しているのではなく、そのあいだの距離こそが、この二人の友情の寸法なのである。
予報を読み解こうと苦闘してきた語り手は、結局アルゴリズムを解読できない。それでいい。傘を持たない二人が、濡れ鼠のまま並んで歩く。友情とは、おそらくそういう天気のことだ。
《※本作は第4回『GO-mono短編文学賞』の三次選考作品に選出された結果、最終候補には残れず。またの機会に》
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