泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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あぶないタッチ病

長年愛用していたiPhone 6が壊れた。かもしれない。かもしれなくないかもしれない。

なんといっても「6」だ。いったい何世代前の機種ということになるのか。もちろん普段から動作は重い。

それが故障による症状なのか、単に性能が時代に置いてけぼりを食っているだけなのか、その判別が難しい。人間の年齢に換算すれば、老人であることは間違いない。むしろ長生きしているほうだと思う。すでにバッテリーの手術だって一度行っている。

タッチパネルが反応しなくなってしまったのである。だが毎回ではないのがややこしい。呼べば三回に二回は振り向くが、一回は無視されるくらいのイメージ。つまり健全な反抗期の息子が返事をするくらいの頻度。

だがそんな子に育てた憶えはない。たしかに購入初日からさっそく便器にドボンするというアクロバティックな失策をやってのけた憶えはあるが、その本体はすぐに丸ごと交換してもらったからまったくの別人だ。

「ではあなたは、反抗期の子供を故障品扱いするのか?」

なんだかそう問われているような気もする。これはあるいは、子供の成長のために不可欠な、一時的なプロセスとしての壊れかたなのかもしれない。

だがこやつは子供ですらなく、もちろん成長期など、あったとしてもとっくに過ぎている。もうすでに老境の域であるのだ。この歳でグレはじめたら「老害」呼ばわりは決定的だろう。

基本的に、だいぶ前から動きは鈍い。アプリを立ち上げる際には必ず「よっこらしょ」と言うのに充分な間隔を空けてから立ち上がる。時には二、三回それを連呼できるくらいに、たっぷりと時間がかかる。妙なタイミングで固まったり、急に顔面蒼白になったりもする。

しかしそれが故障でないことはわかっている。故障ならば直せるかもしれないが、老化ならばそれを受け容れるしかない。

それでもなんとかこれまでやってきた。しかしそんな状態ではスマホとしての用途には耐えず、近年はスマホ機能は別のものに任せ、もっぱら携帯音楽プレーヤーとしてのみ使用している。搭載するアプリも最小限だ。ラジオと音楽が聴ければいい。

だが単なる音楽プレーヤーだとしても、タッチパネルが反応しないのは困る。ちょいちょい指示を無視される。始めたいときに始まらないのはまだしも、停めたいときに停まらないのはわりと焦る。このまま永遠に停まらなかったらどうしようかと思う。

冷静に考えれば音量ボタンは生きているのだから、ボリュームを最小限に絞ればとりあえず静寂という結果は得られるのだが。もちろん電源を落としたっていいが、面倒なことこのうえない。

そういえば画面が無反応になったときには、電源ボタンを押して画面をいったんオフにしてからすぐにもう一度オンにすると、反応が復活することが結構ある。二度三度やっても無反応なこともあるが、五回くらい繰り返せばさすがにタッチパネルも反応するようになる。

それがどのようなルールになっているのかはわからない。なんだかとても人間的な気分の損ねかたであるような気がしてならない。

悩んだ末に、近所のiPhone修理店に相談してみることにした。事前にネットで調べた情報によれば、バッテリーが劣化して膨張することにより、画面が浮いてタッチパネルの反応が悪くなることがままあるという。そういえば前回バッテリーを交換してもらった際にも、バッテリーが膨らんでいたと報告された憶えがあった。

ならば今回もそんなところだろうと予想をつけたうえで店に向かった。バッテリー交換だけで済むのなら、さほど費用はかからないはずだ。

iPhoneの修理を承っているとの黒板は出ているが、それよりも貴金属をなんでもかんでも買い取るという旨の、赤と金に彩られた大看板が目立つ狭い店舗。そんな街のiPhone修理屋ではあったが、ネットでの評判によれば腕は確かであるとのことだった。

「はい、どうしました?」

小屋のような店に入るとすぐにカウンターがあり、ひとりで切り盛りしているらしい店主の男が出てきた。男は妙に日焼けしており、マスクの上からは異様に濃い二重瞼が飛び出しているが、対応は気さくで朗らかだ。

だが、どうしたもこうしたもない。iPhoneの修理に来たに決まっているだろうと言いたくなるが、この店の看板の文字は「貴金属買取」のほうが圧倒的に大きかったのだった。当然そちらのほうが実入りも大きいだろう。

そうなると途端にちまちました修理を頼むのが申し訳なくなり、

「ちょっと、iPhoneのタッチパネルの反応が悪いみたいで……」と小声で言って、僕はそっと鞄からiPhone 6を差し出した。

続けて、ネットで調べた付け焼き刃の知識を試しにぶつけてみることにする。

「もしかしたらバッテリーが膨張して、いやバッテリーもかなり古くなってるもんで、それで画面が圧迫されて、おかしくなってるのかな、と……」

すると男は、iPhoneを目線の高さまで水平に持ち上げて言った。

「ああ、それはないですね。膨張したら、見ればすぐわかるんですよ。画面の脇んとこに、がっつり隙間ができますから。いまんとこ大丈夫ですね」

こちらとしては、早くも万策尽きた形だ。向こうも、バッテリー交換であれば安価で済むが、そうでないとなればまずは画面の交換、それでも駄目なら基盤の修理ということになり、そうなれば別のもっと性能のいい本体を買ったほうがよほど安いと、現実的な提案をしてきた。

正直なところ、自分は数千円で済むバッテリー交換以上の修理などまったく想定していなかったのだということに、ここでようやく気づいた。そうしてこちらがなんとなく諦めムードを漂わせたところ、店主は結論を述べるようなタイミングでぽつりと、耳慣れない言葉を呟いた。

「タッチ病、かもしれないですね」
「タッチ……病……?」

僕の頭に、バイクに跨がってライフルを構えたクロコダイル・ダンディーの鰐顔が浮かんだ。タッチといえば僕らの世代は舘ひろしである。こっちには、彼がかつてファンの女性たちのあいだで「タッチ」と呼ばれていた、なんてうろ憶えの知識すらあるのだ。

もちろんあだち充作品の可能性だってあるが、ここで言う「タッチ」が「タッチパネル」の略だということくらいは流石にわかってきたため、慌てて舘ひろしを脳内から扇子を仰いで追い出した。この場合の扇子はもちろん、『あぶない刑事』でベンガルが仰いでいたあの扇子でなければならない。

店主の説明によれば、「タッチ病」とは「6」や「6s」あたりの古いiPhoneに見られる故障というか製品不良で、まさにタッチパネルが急に反応しなくなるという症状であるらしかった。

厄介なのは、それがいつ発病するかわからないということで、しかも発病したら修理の方法は基盤交換しかなく、基本的には丸ごとの本体交換になるとのことだった。

ある種の初期不良であるにもかかわらず、まさにある種の厄介な病気のように不思議な潜伏期間のような時期があるため、症状が出るのが保証期間内であればまだ良いが、保証が切れてから症状が顕れることがあるからタチが悪いのだと言う。

やはり舘が悪いのか。舘め。

店主によれば、これは業界ではかなり有名な「病気」であるらしかった。完治する道はなく、やはり買い換えを勧めると繰り返した。

だからといってこの店で買い換えるべき本体を売っているわけでもないので、ことに乗じて新品を売りつけようという魂胆ではなく、心からのアドバイスなのだろう。本体をねじれば一時的にタッチが復活する――なんていう昭和の電化製品のような、ブラウン管テレビの角をぶん殴って直していたような前時代的な現象もあるらしいが、それにしたってすぐに元に戻ってしまうから、結局のところ根本的な解決にはならないとのことだった。

こうしてタッチ病に関する説明を聴き終えた僕は、店主に礼を言って修理を諦めることにした。修理をお願いしていない以上、向こうには一銭の得にもならないのに、熱心に教えてくれたことに感謝しつつ。またもし別の症状が起こったらそのときはお願いしますので、と言い残すと、僕はスーパーに寄って家路に着いた。つまり正確には「スー路」からの家路。

そんなことはどうでもいい。

家に帰ってひと息つくと、「やっぱり問題はバッテリーなんじゃないのかなぁ」などと、あんなに親切にアドバイスをくれた店主を疑ってみたりもした。

しかしとりあえずは騙し騙し、頻繁に無視されることに耐えながら寿命まで使っていくしかない。そう覚悟を決めながらも、できる限りのことは試してみようと、元から少ないアプリを極限まで消去したり、音源データを減らしてみたり、本体を右へ左へねじりパンのように、本当にねじれているのかどうかわからないが何度かねじってみたりもした。だが何をやっても、やはり状況は変わらなかった。

ところが。

翌日になってから、タッチ病と認定されたiPhone 6、つまり徳永英明に言わせれば「壊れかけ」なのであろうiPhone 6のタッチパネルに触れてみると、何かが変わっているような気がした。

もちろんこれまでも、反応するときは反応していたし、特にアプリの立ち上がりが速かったというわけでもない。だがなんとなく、反応が健康的であるような気がしたのだ。まるで風邪が治りきった朝の目覚めのように。

そしてそれ以降、タッチパネルが反応しない「タッチ病」は、どういうわけか数日間に渡って一度も起こっていない。消したいくつかのアプリの中に不具合があったのか、あるいは力任せのねじりが効いたのか(もちろん変にねじれば壊れる可能性もあるので、けっしておすすめはしない)。後者だとしたら、僕の天職はiPhone整体師なのかもしれない。

機械はときに、人間的な壊れかたをする。車を買い換えることを決断した途端、寂しがった旧車が故障するなんてのはよく聞く話だ。ということは逆に、人間的な直りかたをしても不思議ではない。いや充分に不思議だが、不思議なことがあっても不思議ではないという意味で。

そして『あぶない刑事』を久々に観たくなるという、あぶない副作用だけが僕の中に残った。


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