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不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「業者」

 わたしは「業者」だ。なんの「業者」かと問われれば答えることはできないが、わたしが間違いなく「業者」であることは間違いない。あまりに間違いがないものだから、つい「業者」を「間違いのなさ」で強く挟み込んでしまった。これでは「業者」が窮屈がるだろうか。「業者」とはわたしのことだ。

 絶対に伝えたいことは二回言う必要があると、三四郎の小宮は言った。せっかく二回も言うならば、伝えたい事実の前に二度、あるいは後に二度続けて言うよりも、伝えたい言葉の前後からガッチリとサンドしてやるのが一番良いような気がする。「二度」なのに「サンド」とはこれいかに。

 「業者」にはどことなく不安定なイメージがあるが、こうしてサンドイッチしてやることでグッと安定する感がある。わざわざ二度も重ねて言うのは、よほど自信や確信がないせいだという説もある。

「業者」が不安定だと言われて、戸惑う向きもあるだろう。だがそれはおそらく、「業者」を「専門業者」と混同している。わたしは「業者」ではあるが「専門業者」ではない。この二つはもちろん、まったくの別物だ。「業者」には、専門性などありはしない。もし専門性があるとしたら、そいつは「業者」ではなく「専門業者」ということになる。

「専門業者」にはきっと熟練の技がある。その専門性は、取り扱うジャンルの狭さと引き換えに、一定の安定感や信頼感をもたらすものだ。人はファミレスよりもパスタ専門店が出してくるパスタのほうに説得力を感じ、信用してしまいがちである。

 逆に言えばわたしのような「業者」が世間から信用されないのは、専門性が欠如しているせいであるのかもしれない。わたしはあらゆるジャンルの業務をおこなっているが、どの業務にも代えの利かないものはない。いずれも誰にでも、おそらくはAIにでもできる業務だが、しかしわたしの仕事には確固たる「業者感」が出ていると指摘されることが少なくない。

 ではその「業者感」とは何か。いかにも粗製濫造された「大量生産感」と、機械的に生み出されたものが放つ独特の「非人間的な感触」――まあそんなところだろうか。しかしだとすれば、その機械的な感触をわたしのような生身の人間が生み出しているというこのねじれた構図にこそ、なにかしらの価値があるということなのではないか。

 機械が生み出す機械的な感触と、人間が生み出す機械的な感触の違い。それは間違いなくあるのだろう。熟練の職人技が紡ぎ出す異様に精度の高い手打ち蕎麦と、無機質な機械打ちの蕎麦とのあいだに確実な違いが生まれるように。

 何事も精度を上げてゆくと、数値的には機械に近づいてゆくはずだが、そこから実際に受ける感触はけっして同じではなく、むしろ対極の仕事として評価されることが少なくない。目指している地点は、共通である可能性があるにもかかわらず。

 しかしだからといって、わたしは自分が職人であるとは微塵も思わない。何度も言うがそれは「専門業者」の仕事であって、わたしのような「業者」の仕事ではない。とはいえ、もちろんわたしは機械でもない。機械的な人間ですらなく、むろん人間的な機械でもない。つまりわたしはやはり、ただ「業者」と呼ばれるほかないのだ。


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