泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「魔法の言葉」

 よく晴れた朝だった。門を抜けて通りに出た一歩目で、わたしは靴に襲われた。誰かに蹴られたという意味ではない。それは雲ひとつない空から降ってきたのだ。

 しかしそんなことがあるはずはなかった。雲は雨や雪を作るが靴は作らない。だいいちそんな雲さえ、この日の空にはひとつも見あたらなかったのだから。

「痛っ!」

 靴の奇襲攻撃を受けたわたしは、蹲って素直な感想を口にした。すると道の反対側から、片足を上げたけんけん走りで寄ってきたスーツ姿の男が、満面の笑みを浮かべてわたしにこう言った。

「冗談ですよ、冗談!」

 なぁんだ、そうなのか。それが本当に天から降ってきたというのなら、とても冗談では済まされないが、そんな天変地異に比べれば、たしかにこれは些細な冗談のようなものかもしれない。それにしても冗談は言うだけでなく「する」ものでもあったのか。冗談を言われたら笑うものだという最低限のマナーを心得ているわたしは、そんな痛みを伴う冗談に対しても、笑顔を返すことを忘れなかった。

 赤く腫れた額をなんとか前髪で隠して出社すると、わたしは午後の会議で提出する資料の最終チェックに取りかかった。それはわたしが入社以来はじめて採用された企画であり、何日も徹夜しながらひとりで二週間かけてようやく作り上げた資料に、ミスがあっては元も子もない。

 会議がはじまる直前にわたしが資料を配りはじめると、それを最初に受け取った部長がくれたのはねぎらいの言葉ではなかった。

「まさか本当にやるつもりだったの? あれ冗談だよ、冗談!」
「いえ、あの企画はけっして冗談などではなく――」
「内容は至って真面目で、悪くなかったよ。それはともかく、あの企画を通したというのが、冗談!」

 わたしの二週間ぶんの仕事は、この部長のひとことによって、一瞬にして冗談へと昇華されたのであった。実現には至らなかったものの、内容が一定の評価を得たことにわたしは安堵した。それに、この二週間ぶんの給料がもらえないというわけではないのだから、たとえ冗談で済まされるにしても、これが立派な仕事であったことに変わりはないはずだ。

 それから一ヶ月後、部長に呼び出されたわたしは、新たに進出することが決定した海外紛争地域への異動を命じられた。わたしはこの異動の辞令もまた冗談であることを願ったが、それはまったく冗談などではなく、わたしは予定どおり紛争のさなかへ。

 そこではまさしく冗談のような体験をいくつもすることになったが、なにひとつ冗談で済まされるようなことはなく、しかしすべては冗談であると開き直らないことには、とても生きてはいけない状況であった。


 過酷な勤務を命からがらまっとうし、三年後にようやく無事本社へと呼び戻されたわたしは、再び部長の前に立っていた。

「良くやってくれた」

 上司の口からその言葉を聞けただけで、わたしは涙が出そうになった。

「まあ、これもほんの冗談だったわけだが」

 そんな部長の言葉を証明するように、わたしの帰国と同時にその支社は閉鎖され、我が社は紛争地域から全面撤退することになった。冗談に消費期限というものはなく、三年越しの冗談というものも現実にあるのだということを知った。

 そしてわたしは三年ぶりの我が家へ。ひとつ大きな深呼吸をしてから門を開けると、次の一歩でわたしは文字どおりどん底へと突き落とされた。頭上からはどういうわけか大量の土砂が降ってきて、わたしの視線の先には片足に靴を履いた例の男が笑っていた。

「だから冗談ですよ、冗談!」

 わたしは落とし穴の中から、一生出られないような気がした。


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