泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』/村上春樹

毎度のことながら、発売前から毀誉褒貶激しい村上春樹の最新作。しかしそれが純粋に作品に向けられたものであるかどうかは、相変わらず疑わしい。何しろ発売前から賛否両論あるのだから。でもその気持ちはわかるし、かなり意図的に視界を狭めて情報を遮断しないと作品に真正面から対峙できない状況であるのは間違いない。そんな現状を考えたうえでの作者と出版社の戦略も理解できる。だがその結果として、狭めた視界が上にニュインと伸びてハードルが上がるというのも、また事実ではあるのだが。

個人的には文中と帯文に出てくる言葉そのままに、「良いニュースと悪いニュースがある」という感想を、レモンドロップを舐めつつパスタをアルデンテに茹でながら(もちろん嘘)まずアナウンスしておきたい(今回は残念ながらレモンドロップが作中に出てこない)。

より正確に言い換えるならば「良い部分と悪い部分がある」という、現存するすべての小説に、それどころかこの世のあらゆる出来事や人物にあてはまる普遍的な感想をまず抱くところからしか、何かについて語ることはできない。いわゆる「是々非々」という(当たり前の)姿勢だが、そう言うとなんだか「非」のほうが強く響くような気がするので、ちょっと違うかもしれない。違わないかもしれない。そんなことを考えているうちに、パスタを茹でている鍋に舐めていたレモンドロップが落下して、パスタがほんのりレモン味に、レモンドロップがアルデンテになる(嘘の続き)。

本作の最大の特徴は、過去の村上春樹作品と比べて、ちょっと読みやすいということかもしれない。「最大の特徴」が「ちょっと」ではおかしいだろうと思われるかもしれないが、逆に言えば過去の作品と比較して、構造と文体のシンプルさ以外、そんなに取り立てて大きな違いはない。まるで若い頃はプログレとかフュージョンとか取り入れつつ超絶技巧を駆使して緻密な楽曲を制作していたミュージシャンが、熟年期に入ってシンプルなブルーズしかやりたがらなくなるような自然さ(わかりにくいかもしれないが凄く良くあるパターン)で、それを「成熟の結果」と捉えるか「冒険心がない」と捉えるかで評価は正反対となるだろう。それは読者が読書という行為に、「共感がもたらす安心感」と「違和感がもたらす発見」のどちらを主として求めているのかという違いでもある。

もちろん、一人の作者の中には「共感」と「違和感」のどちらかしか感じることができないというわけではなく、その両者をそれぞれ見出すことは可能である。村上春樹作品の中にもその両者は混在しているが、大きく分けてどちら寄りの作品かという違いは結構あるように思う。前者の代表作が『ノルウェイの森』で、後者の代表作が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ということになるだろうか。そういう意味で本作は、明らかに前者の「共感」よりの作品であり、ちょっと不思議な状況(たとえば夢)やちょっと不思議な人物(病名が特定できるかできないかくらいの)は登場するが、謎の空間や、まったく思考回路の手掛かりもない宇宙人のような人物や、人間外の生物なんかは出てこない。

370ページある長編小説だが、あまり驚きや破綻がないという意味で、「小さくまとまった作品」と言えるかもしれない。しかしそれは、単につまらないということを意味しない。小さくまとまったもののほうが、密度が高い部分も当然出てくるものなので。

では本作は、どんな読み方をする人にとって面白いのか。この作品を読むべきは、「いくつか自分にとって心地良い警句が見つかればOK」という、もの凄くミクロにビジネス書的なヒントを求めている功利主義者と、それとは正反対に「とにかくストーリー全体の流れが的確かつスムーズで、雰囲気の一貫した物語を読みたい」という、いちいち木を見ず森を見るタイプの、マクロな読み方を好むムーディーな人(勝山含む)だと思う。とはいえ前者には「警句の中には持って回った言い回しが鼻につくものが結構ある」というハードルがあり、後者には「結末がアンチ・ストーリー的な投げっぱなしジャーマンである」という小さからぬ問題がある。

読中読後に何よりも「まとまり」を真っ先に感じたのは、もちろんファンタジー色の薄さもあるが、それ以上に適度なタイミングで警句というキメフレーズが放たれるからで、それは村上春樹作品では毎度のことではあるのだが、今回は地の文にも各人の台詞の中にも、そういった人生訓めいた警句がかなり多いように感じられた。そして今回特に興味深かったのは、作者自身がそんな自分の警句癖に関して、どう思っているかが垣間見える箇所があったということである。

物語後半、主人公の多崎つくるはフィンランドへ行き、地元のタクシー運転手と会話を交わす。そこで運転手が「休暇と友だちは、人生においてもっとも素晴らしい二つのものだ」と警句めいたことを口にする。それに対し語り手は地の文で、こんなことを思う。

フィンランド人がみんな、そのように人生について気の利いた警句を口にするのが好きなのか、それともそのような性向はこの運転手一人のものなのか。できれば後者であることをつくるは希望した。》

これは衝撃的な表明ですよ奥さん(なぜか奥さん限定)。なぜならばこの作品は、どこにもここにもかしこにも、地の文にも誰の台詞にも遠慮会釈なく、あちこちに警句がポンポンと放り込まれているからで、もちろん主人公のつくるも警句言い放題しゃぶしゃぶ食べ放題の一時間二千円コースだからである。「お前が言うな」という話である。つまりこれは完全に自己批判になっているのだが、もちろんここに確信犯めいた自己パロディのトーンはない。村上春樹はどうやら自分の描く登場人物を、いやそれだけでなく自分の作り上げた小説世界を、そこまで警句まみれの世界だとは夢にも思っていないらしいのだ。今やそれがこの作家の特長(であると同時に、アンチがつく理由でもある)として広く認知されているにもかかわらず、本人はそれが武器だとは気づいていない。そういうことは物づくりの現場では意外とよくあることだが(だからこそ編集者や批評家による他者視点の存在意義がある)、ここまで分量のあるもの(なにしろひっきりなしに誰彼かまわず警句が出てくる)が、意図的に放たれているのでないとしたら、さすがに驚きではある。

そしてこの作品のもうひとつの特徴である「ストーリーのスムーズさ」に関しては、「まず謎を提示して、それを順序よく解明していく」という基本的な手順が異様にかっちりしているというのが何よりも大きく、それが全体の読み進めやすさにつながっている。そのわかりやすさの中心には、たとえば池上彰のニュース解説のような手際の良さがあり、「この時点で読者には何がわからなくて、どんな情報を欲しがっているのか」ということを、着実に先読みして提示していくという見込みの確かさがある。ある程度純文学を読み慣れている読者にとっては、その手際の良さが正しすぎて、面白味のなさと感じられると思うが、村上春樹が毎作そこまで順序よく親切にやっているというわけではないから、今回は特に「説明する順序の的確さ」を狙ってやっているように見える。

新規読者や小説を読み慣れていない若い読者を獲得するためには、それは至極真っ当な戦略であろう。個人的には、やっぱりフォームが綺麗すぎて面白味に欠けるとは思うが、そういった意味で技術的に優れているということもまた間違いはない。ただ、おそらくは想定読者のレベルを低めに設定しすぎた結果(もしくは年を重ねると繰り言が増えるという一般的傾向)として、親切に予習復習をやりすぎるというか、同じことを何度も何度も繰り返す傾向があって、特に前半は間延びしている感がある。この「間延び感」は前作『1Q84』にも通じるもので、分量的には半分くらいにまとめるべき作品かもしれない。

そんなことより何より、個人的にはとにかくレモンドロップが一個も出てこないことに不満があるので、今から出来上がったレモンパスタをスギちゃん的ワイルドプレイで網戸にぶつけて湯切りして、その床にぶちまけられたパスタを放置したままベランダのデッキチェアに双子の姉妹(マナカナあるいはきんぎん)と寝そべってレモンドロップを一気食いしたいと思う。思うだけでやらない自由。

【『1Q84』/村上春樹
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20090701/1246435490
【『1Q84』/村上春樹 追記】
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20090723/1248371205
【『1Q84』BOOK3/村上春樹 Part1】
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20100422/1271927915
【『1Q84』BOOK3/村上春樹 Part2】
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20100423/1272023511

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