泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

ジョージOL

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じゃなくてジョージ・オーウェルを最近ようやく読みはじめた。このタイトルから、OLの格好をした高橋ジョージを期待してしまった人には本当に申し訳ない。著者近影を見る限り、髪型は少し似ているかもしれないが。

なぜ今ジョージを読もうと思ったかといえば、近ごろになって自分の書いている小説が、どれもこれも実のところ、ある種のディストピア小説と言えるのではないかと急に感じはじめたからだ。

それでディストピア小説を調べてみると、どこへ行っても必ずやジョージの『一九八四年』に当たる当たる。ディストピア小説というくくりで紹介する際に、『一九八四年』を入れていなければモグリだと言わんばかりに。

もともとディストピア的な小説は好きで、個人的には以前ここでも紹介したボリス・ヴィアンの『北京の秋』なんか素晴らしいのだが、逆にこれをディストピア小説の名作として入れている人は、僕の見る限り見あたらなかった。

ディストピア小説といえば基本的にSF小説のいちジャンルで、SFはやはり物語や設定の完成度を求める向きがあるから、そういう人にとって『北京の秋』はちょっと自由かつシュールすぎるのかなとは思う。だがむしろ、個人的には純文学的な、ある種無軌道な面白さをもったディストピア小説が読みたいし書きたいと思っているのだが、そういう作品はジャンルの狭間に埋もれている感があってなかなか出会うのが難しい。

しかしもともとディストピア小説という領域には興味があったはずなのに、その代表格であるジョージになぜここに至るまで手をつけていなかったかと言えば、それはもう「ジョージ・オーウェル」という名前の田舎臭さに尽きる。

なぜだかはわからないが、僕はこの名前を聴くとオクラホマオレゴンの草原やトウモロコシ畑を思い浮かべてしまって、そこへさらに彼のもうひとつの代表作である『動物農場』という題名が乗っかると、これはもうアメリカの片田舎からイメージが抜け出せなくなってしまうのである。

だがディストピア小説がSFジャンルのいち部門である以上、ジョージの名前がいかに田舎臭くとも、それは何かしら近未来的要素を持つSFであるはずで、それはたとえ題名が『動物農場』であったとしても、何かしら人類の(ネガティブな)未来を予見するものであるに違いない。

そう思って重い腰を上げつつ、まずはページ数が200程度と少なめの『動物農場』のほうから読んでみることにした。そして読み終えた。読み終えてから少し時間が経ってだいぶ内容を忘れた。忘れたから面白くなかったというわけではないが、もっと早く感想を書くべきだったとは思う。

といっても個人的にはまずまずといった印象で、巷で言われているほど手放しで絶賛する気にはなれなかったから感想を書くほどではないと思った。だから次に本丸である『一九八四年』を読んでから一緒に感想を書こうと考えていた。

しかしいざ『一九八四年』を読みはじめてみたら、こちらはさすがに面白そうなので、まだ18ページしか読んでいないのにこれを書きはじめてしまった。タイミングが遅すぎるのか早すぎるのかわからないが、ジャストでないのは確かだ。

動物農場』のほうは、簡単に言えば農場の動物たちが結束して飼い主であるところの人間を追い出し、動物だけの理想郷を実現するという話だが、擬人化された動物のキャラクターの役割分担がきっちりと典型にハマりすぎていて、面白いというよりはやや窮屈な印象を受けた。ユートピアからディストピアへと変化してゆく展開も、起承転結が明確で完成度が高い分、それと引き換えに自由な発想力が犠牲になっているように感じた。もちろん教科書的な面白さはあって、ディストピア小説のお手本としては充分に評価できると思う。

というわけで先にも触れたように、『一九八四年』に関してはなにしろまだ18ページしか読んでいないのでまだ何も書けない。書けるとしたら、とりあえず出だしは「いい感じ」というPUFFYのような感想になるが、これに関しては読み終えたらきっちり単体でレビューを書きたいと考えている。

といっても考えているだけなので実現するとは限らないが、考えていることが実現しないほうが良いのがそういえばディストピア小説である。


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