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短篇小説「マジックカッター健」

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 マジックカッター健はどこからでも切れる。彼を切れさせるのに、切り込みなど必要ない。お肌だってツルツルだ。

 マジックカッター健は、端から見れば何ひとつ原因が見当たらないのに切れる。しかし実を言うと、健には本当に切り込みがないのではない。彼の切り込みは外からは見えないというだけで、健が切れるときには必ず、心の中のどこかに切り込みがひっそりと入っている。マジックには、必ずタネがあるというわけだ。

 今日も健は昼休みに、中華料理屋へラーメンを食べにいって切れた。中華屋名物ともいえるベタベタの床が、今日に限っては、どういうわけかスベスベであったからだ。

 もちろんこれは、一般的な基準からすると切れる原因にはなり得ない。むしろ褒められるべき点だろう。だが外見的には無傷でも、心の中に切り込みを持つ男、それがマジックカッター健。この場合、健は自らの努力が報われないことに切れていた。

 つまり健はこの日、昼を中華屋で食すべく、あらかじめ底がベタついてもいいスニーカーをわざわざ履いて出勤していたのである。他の人間からしてみれば、無論そんなことは知ったこっちゃない。

 だがこれは、明らかな裏切り行為だ。健の心の中に入った確実な切り込みだ。それは勝手に想定して勝手に裏切られるという、自傷癖のような切り込みだ。

 健は会計の際、レジの店員に向かって以下の如く切れてみせた。店員からしてみれば、どこにどんな切り込みが存在するのやら、さっぱり見当たらなかったに違いない。まさしくマジックカットというほかない。

「こんなことなら、おニューの革靴を履いてくるんだったよ! 選びに選んで汚れてもいい靴を履いていったときに限って、さっぱり汚れなかった者の気持ちがお前にわかるか? それはいざ全裸になって楽園への扉を開けてみたら、露天風呂が掃除中だった、というくらいのがっかり度合いだってこと!」

 店員は渡すべき釣り銭を握りしめたままその場に立ち尽くし、去りゆく健の背中を見送るしかなかった。結果として健は数百円のお釣りを損したことになるが、そこに健が切れることはない。マジックカッターであるからには、一般人が切れやすいポイント、つまり「外から見える切り込み」から切れるわけにはいかないのだ。あからさまな切り込みが露呈しているようでは、マジックカッターを名乗るに値しない。

 今日の健は、帰りの電車内でも切れに切れた。あえて一本見送ったのちに行列の先頭から車両に乗り込んだ健は、真っ先にシルバーシートの一角へと尻を沈めた。その疾きこと風の如し。

 すると健の目の前に、見た感じ九十歳くらいのお爺が立った。健はここぞとばかり鮮やかに腰を上げ、お爺に席を譲ってみせた。譲りに譲ってみせた、と言ったほうが正確かもしれない。お爺は素直に「ありがとう」と礼を言って腰かけた。健はやや照れた面持ちで、お爺の席から斜め前の位置へ絶妙に距離を取って立つことにした。ここまでは良かった。

 そこから三駅ほど過ぎたであろうか。健の隣、つまりお爺の前に、今度は見たところ八十歳くらいのお婆が乗り込んできた。さらにお婆は両手で杖をつくという二刀流の使い手である。かばうような動きから察するに、どうも腰が悪いらしい。

 ややあってその状況を把握したタイミングで、健は雷神の如く切れた。一見何もないシチュエーションで切れるのが、我らがマジックカッターの真骨頂である。健は席を譲ってやったお爺に向けて、言葉の刃物を突き立てた。

「おいお爺! あんたは見た感じ、おそらく九十代前半といったところだろう。そしていま乗ってきたお婆、あんたはなんとなく、八十代中盤に違いない。そして俺はあんた、そう九十代のお爺のほうへ席を譲った。もちろんそれは、お婆よりも先にお爺が乗ってきたからだ。では訊くがお爺、あんたはこの俺の判断が正しかったと断言できるか?」

 座っているお爺もその前に立っているお婆も、呆気に取られて何も言えず揃って固まるしかない。普段は止まらない震えも、この時ばかりは止まったという。そこで健は自らの内に隠れた切れポイントを明確にするため、新たなるフェーズを提示した。

「普通に考えれば、より年齢の高いほうへ席を譲るのが筋ってもんだろう。しかしお爺、よく見てみろ! このお婆、杖をついているじゃあないか。しかも二刀流と来た。つまりこのお婆は、俺の見たところ明らかに腰痛持ちだ。俺は医者でもなければ腰痛なんて知らない。だがこうなると、問題は途端に難しくなる。九十代で腰がほぐれているお爺と、八十代で腰が凝り固まったお婆、どっちに席を譲るべきかってことだ! 二人の年齢は見たところ、七~八歳差ってとこだろう。もちろん俺には、人の年齢を見極める才覚などないよ。それどころか、お爺だと思って声をかけたらお婆だった、なんてことすらある。しかしだとしたら問題の本質は、杖をつくほどの、二本の杖を必要とする腰痛にそれだけの、七~八歳の年齢差を覆すだけのダメージが認められるかってことだ。そして腰痛などまったくなったこともない俺のフィーリング的に、そのダメージは十歳差をも覆すだけの威力を持っているに違いないと確信している。つまりお爺、てめえはさっさとお婆に席を譲れ!」

 切り込みがないのに切れる魔法の男、それがマジックカッター健。そのマジカルな切れ味は、社会正義か害悪か。とりあえず「こちら側のどこからでも切れます」などと堂々表記しておきながら、案外どこからも切れないマジックカットの小袋があるのはなんとかしてほしいものだ。


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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

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