「中国のカフカ」こと残雪による第一長編。作者名を聴いて、まずはイルカの名曲「なごり雪」が頭に流れる。カフカを彷彿とさせる不条理な予感は、冒頭の一文からして十二分に漂っている。
《あの町のはずれには黄泥街という通りがあった。まざまざと覚えている。けれども彼らはみな、そんな通りはないという》
「ある」ようで「ない」場所。「ない」ようで「ある」場所。現実と夢の狭間に立ち現れるディストピア。人だけでなく場所ごと、箱庭的にでっち上げるというフィクションの強度。それを一瞬で感じさせるこの立ち上がりは、まさにカフカと共通する世界観である。
だが本作の文章は、カフカほど明快ではない。「小理屈をこねる」という会話文の面白さは共通しているが、残雪の場合その関節がことごとくはずれている。
カフカの遊びは、それがどんなに不条理であっても、あくまでも理屈というルールの中で行われる。ゆえに明らかな屁理屈であっても、そこには常に「一理ある」と思わせるだけの、なんらかの筋がかろうじて通っている。
逆に言えば、コンスタントに「一理だけある」と思わせるギリギリのラインを突いてみせるのがカフカの凄さであり、お笑いでいえば「あるある」と「ないない」の間をズバッと射抜いてくる痛快さがある。
それに対し、『黄泥街』における残雪の文体は、ギリギリのところで「一理もない」状態へと理論を脱臼させてくる。しかもこれが、いかにも一理ありそうな口ぶりで言い放たれるから厄介だ。
《「きのうまた百足の夢を見た。黄泥街はまるで穴ぐらだな、ひっきりなしに百足やナメクジが涌いてくる。この雷、どうもなにかを打ち殺しそうだな。雷が鳴ると、おれは膝の力がぬけてしまうんだ」》
ひとつの事実を述べているようなリズムで、気づけば途中からシームレスに話題が変わっている。筋が通っているようで通っていない。こういう台詞まわしがそこかしこに見られて、理論的に読み進める心が折れそうになる。
こうなるとカフカを読んでいるときのように、素直に笑うことができない。笑いというのは、それがどんなに型破りなものであったとしても、やはり理屈を前提としている。「型破り」というからには、「型」は破られるためにこそ必要なのであって、破れた部分を見せるには、破れてない部分がある程度原型をキープしていないと破れているように見えない。七割方破れたダメージジーンズは、もはやジーンズではなく単なる布の切れ端だろう。
だがそもそも、残雪がこういった理論的破綻を意図的にやっているのか、あるいは天然なのか。また翻訳文学の常として、訳がこなれていない、という可能性だってあり得る。
そんな足元がぐらついた感触のまま、なんとか最後まで読み進めてみた感想は、「竜頭蛇尾」という印象であった。冒頭に提示される魅力的な破滅的世界観が、期待したほど広がりも深まりもせず、ただその中をふわふわと彷徨っているような。結果的に面白いのかと問われれば、確信をもって「面白い」と答えることができない。
しかしそんな曖昧な印象は、本編終了後に待ち受けている評論「わからないこと 残雪『黄泥街』試論」を読むことによって劇的に変わる。これは本書の翻訳者である近藤直子による40ページに渡る作品論だが、これが本当に素晴らしく、訳者あとがきとは別個にわざわざ収録された価値のある、見事な羅針盤となっている。
とはいえ、そこには物語の謎に迫る鮮やかな回答が提示されているというわけではない。ここで書かれているのは、むしろ本作の「どこがどうわからないか」ということであり、しかし翻訳者自らがその「わからなさ」を明確に指し示すことによって、読者は自分が読書中に終始感じていた「わからない」という感覚が、間違いでなかったことを知る。
普通に考えれば、わからない部分をどんなに細かく指摘したところで、結果的にわからないんじゃあ意味がないと思うかもしれない。だがこの論考を読むと、翻訳者がわからない箇所を具体的に例示していくことで、そのわからなさが、訳者の誤訳や作者の天然といった不安定なものではなく、作者がある意図をもって提示し続けた「安定したわからなさ」であることが見えてくる。
つまり「わからなさ」に対する接し方を、獲得できるのである。それはまるで、言葉の通じない、根本的には「わからない」存在であるところの、動物との接し方がわかってくるように。
いや別に動物でなくとも、相手が人間であっても、接し方など本質的にはわからないのだった。そう考えてみれば、人間を描く文学が、わからないことを書くのは必然であるように思える。
最後に、訳者によるこの論考の最後を締めくくる文章を引用する。これを読んで何かしら心が動いた人は、この作品を、もちろん最後の評論まで含めて読む価値がある人だと思う。
《すべての始まりであると同時にすべての終わりでもあり、すべての終わりであると同時にすべての始まりでもある場所。他者と一体であることのおぞましさが快楽に変わり、その快楽がおぞましさに変わる場所。わかろうとする狂気がわからないことへの絶望に変わり、わからないことへの絶望がわかろうとする狂気に変わる場所。語りえぬことを、語りえぬがゆえに語ろうとする「気ちがいのたわごと」が、文学が、そこからはじまるのだとすれば、残雪の文学はすでにはじまっている》
- 作者: 残雪,近藤直子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2018/10/12
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