僕はこれまでことあるごとに、「日本では、どういうわけか楽しそうに仕事をしている人の給料が安い」と感じてきた。思い知らされてきたと言ってもいい。
もちろん、アリーナを埋め尽くすミュージシャンのように、トップクラスまで突き抜けてしまえば話は別だ。しかしその手前でコツコツやっている段階の職業人に関しては、そのやりがいや面白さが明確であればあるほど、ギャランティーが不当に安く設定されているような気がする。
それはなぜか。それはきっと、「あんたは好きなことをやるという報酬をすでに得ているのだから、それとは別に金銭的報酬まで多く与える必要はないだろう」という感覚が、世間一般にあるからなのだと理解してきた。そんなねじ曲がった考え、理解したくもないし納得はできないが、実際のところ理解くらいはできてしまう。
逆に言えば、「やりたくないことをやっている人に、そのやりたくなさを埋め合わせるように与えられるのが金銭」であるという価値観。それはもはや道徳感と言ってもいい。まるで「好き」を仕事にしている人間を、ズルをしている輩と見なすような。
これまで感じてきたそういう無言の圧力のようなものを、解明してくれる書物と期待してこの本を手に取った。そして本書の後半には、まさにそのようなことが語られている。個人的には自分の感じていたことが裏付けられたような納得感があるが、一方でこれが島国日本特有のガラパゴス的価値観ではなく、国際的に蔓延している問題であるということに驚きもした。
そして僕の感じていた「好きな仕事と報酬の関係」は、現在世界中で巻き起こっている労働問題の、ほんの一部に過ぎないということもわかった。本書で語られるベースとなっているのは、「好き」をも含んだ「やりがいのある仕事」と、その対極にある「ブルシット・ジョブ」という構図だ。「当人が好きではないがやりがいを感じている仕事」というのももちろんあって、それはブルシット・ジョブにはあたらない。
筆写は自ら名づけたブルシット・ジョブを、こう定義している。
ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。
ここで注目すべきは、最後の《本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている》という部分、つまり「意味のない仕事とわかっていながらも、それがさも意味のある仕事であるように振る舞わなければならないと自覚している」という点だろう。
世の中には明らかに意味のない仕事というのがあるという事実には、誰しも心当たりがあると思う。だがそれでも、本人がそれを意味がないと感じていなければ、それはブルシット・ジョブではないということになる。つまりどんなにやりがいがなくとも、「たいしたことしてないのにいい給料がもらえて楽な仕事だなぁ」と感じている脳天気な人は、問題にならないということである。
本書は一見すると、ブルシット・ジョブに就いている人を批判するための書物に見えるかもしれないが、実のところそうではない。
それは著者がブルシット・ジョブを実際に経験した人々から寄せられた体験談を元に論を構成しているというプロセスのためかもしれないが、むしろいまブルシット・ジョブに就いていることに苦しんでいる人たちをどうすれば救えるのか、社会をどのように変えれば彼らは幸せになれるのかを考えるための一冊になっている。
そういう意味では、単なる不満の捌け口としての現状批判に陥ることもなく、前向きで非常にスケールの大きな、いま読まれるべき問題提起の書であると思う。