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短篇小説「感謝しかない」

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 今朝はあやうく寝坊するところだったが、スマホのアラームがちゃんと鳴ってくれたお蔭で予定どおり起きることができた。スマホには感謝しかない。

 それ以前にベッドがあるお蔭で、僕は寝坊するほどに眠ることができている。ベッドにも感謝しかない。

 もちろん寝るために必要なのはベッドだけじゃなかった。枕にも布団にも感謝しかない。シーツはもうところどころ破れかけてはいるけれど、破れないように頑張ってくれているのがわかるから、結局のところ感謝しかない。

 羽毛布団からは頻繁に羽が飛び出してくるが感謝しかない。おかげで当初のふわふわ感はどこへやら、すっかりせんべい布団になってはいるが、それが布団である以上は感謝しかない。もう全然温かくなんかないが、ないよりはあったほうがいいに決まっているので感謝しかない。こんなに次から次へと羽が飛び出してくるということは、最初から不良品だったような気もしないでもないが感謝しかない。総じて鳥類には感謝しかない。

 そうやってスマホに寝具に万物に感謝しまくっているうちに、すっかり通勤電車に乗り遅れて会社に遅刻した。部長には陳謝しかない。同僚にも部下にも課長にも社長にも陳謝しかない。ちなみに我が社には本社しかない。

 打合せの約束をしていた取引先にも、普段ならば感謝しかないところだが、今日ばかりは陳謝しかない。

 僕はさっそく営業車で取引先の店舗へと向かった。すでに約束の時刻からはだいぶ遅れている。先方には駐車場がないため、その付近をぐるぐると回って有料駐車場を探した。満車しかない。

 そんなことをしているうちに、時間は容赦なく過ぎていった。さらに陳謝しかない。御社に陳謝しかない。

 しばらく走りまわって、徒歩十分ほどの場所にようやく空きスペースのある駐車場を見つけた。感謝しかない。

 そしていざ駐車場に入って周囲を見渡してみれば、なぜそこに空きがあったのかが立ちどころに判明した。ヤン車しかない。反社しかない。

 僕はボンタンの裾をひきずるように車高を下げられたヤン車とヤン車のあいだのわずか一台分のスペースに、何度も細かく切り返しながら、極めて慎重に社用車をねじ込んだ。駐車しかない。

 すでに三十分ほど遅れていたが、だからといって手ぶらで陳謝するわけにもいかない。幸い、店舗までの徒歩十分の道のりにはささやかな商店街があった。その中に、手頃な和菓子屋やケーキ屋でもあるといいのだが。僕は目を皿のようにして、一軒一軒の存在を確かめるように歩いた。パン屋しかない。

 ならばパン屋でなるべくケーキっぽいパンを買うだけだ。だがすでに大半のパンは売り切れているようで、棚は一箇所を除いてすっからかんだった。パンダしかない。

 仕方なくパンダの顔が描かれた菓子パンを購入し、取引先の店舗へと走る。途中、朝から何も口にしていないためか喉の渇きが限界に達し、このままでは陳謝の言葉もスムーズに出てこないのではと思い、ちょうど見つけた自販機の前でショーケース内のラインナップを見つめた。ファンタしかない。

 そこで炭酸では飲むのに時間がかかってしまうと考えた僕は、すぐに次の自販機まで走り、再び眼前に並び立つペットボトル群を見つめた。番茶しかない。

 僕はコインを投入し適当にボタンを押した。そして特に飲みたくもない番茶を急いで口に注ぐと、全力のラストスパートをかけて取引先の店舗へと飛び込んだ。それは大袈裟ではなく文字どおり、まさに飛び込むという具合だった。店舗の入口は自動ドアになっていたが、僕はそれが充分に開くのを待ちきれなかった。ガッシャーンしかない。

 こうして僕はすっかり四十五分も遅刻したうえに、取引先の自動ドアまで破砕してしまったのであった。

 ここまで来れば僕が求めることはただひとつ、恩赦しかない。そしたら今度こそ本当の本当に、感謝しかない。

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