泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「あれ」

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 ある朝のことである。家を出て駅へと向かう道すがら、私は「あれ」を家に忘れてきたことに気づいた。私はいますぐに「あれ」を取りに帰るべきだろうか。だが「あれ」がなくても、今日一日くらいなんとかなるだろう。そう思って私は踵を返すことなく、いつもの通勤電車に飛び乗った。

 だがその考えは、あまりに楽観的すぎたかもしれない。私は揺れる満員電車の中でつり革を掴んだり放したりしながら、「あれ」を忘れたことでこの先私に何が起こり得るかを考えた。もはや取りに戻る時間の余裕はない。

 このまま会社へ着いたところで、「あれ」がなければ私は自社ビルに入館することすらできないだろう。入口に立つ厳格な警備員が、「あれ」を忘れた男をまさか通すはずがない。私が「あれ」を忘れていることは、誰の目にも明らかであるからだ。

 忘れ物をしたときの対処法として、それを取りに帰ることが難しい場合には、新しくそれを購入するという選択肢もある。余計な出費が嵩むことになるが、背に腹は代えられない。幸いなことに、私が忘れた「あれ」は一般に購入可能なものであった。

 しかし具体的にその状況を思い浮かべてみたところ、その選択肢も即座に消えた。私が「あれ」を買い求めにいく際にも、絶対に「あれ」が必要であるからだ。「あれ」がなければ、どんな店からも門前払いを喰らってしまうだろう。私はなぜよりによって「あれ」を家に忘れてしまったんだろうかと改めて後悔の念を深め、ため息をついた。

 そうやって様々な場面を脳内でシミュレーションしながら、私は電車内で立ったままスマホを見ていた。するといつも満員のまま会社の最寄り駅へ到着する電車が、いつからか妙にすいてきていることに私は気づいた。目の前の席がちょうど空いていたので、私はそこへ腰を下ろした。朝の通勤電車で座れたのは、台風の日を除けば初めてのことだ。

 だが悲観的にばかりなっていてもしょうがない。「あれ」を忘れた私は、少なくとも今日という一日を「あれ」なしで乗り切るしかないのだ。やはり物事は前向きに考えるべきなのだ。

 たとえば私が自社ビルへ入館する際に、たまたま警備員がよそ見をしている可能性だってある。いやそうに違いない。警備員にだってミスはある。だって人間だもの。そうして私は幸運にも「あれ」なしでオフィスの自席へとたどり着く。

 そういえば今日は、大手外資系の取引先を迎える初めての会議があるのだった。といっても初日は顔あわせ程度なので、特別な準備などはいらないのだが。あれはたしか、アメリカに本社がある企業だったか。ということは、本社から派遣された米国社員も何人か出席してくることだろう。

 そこで彼らは「あれ」を忘れている私を見て、何を思うだろうか。日本と比べればいろいろな面でひらけたあちらのことだから、もしかしたら温かく迎え入れてもらえるだろうか。あるいはその方面の問題に関しては、昨今あちらのほうがよほど厳しいのかもしれない。すぐに訴訟に発展してしまう可能性だってある。

 それだけは避けなければならない。私は午後の会議までに、なんとしても「あれ」に代わるものを見つけなければならないだろう。オフィスにあるもので、「あれ」の代わりになるものといえば、何が考えられるだろうか。

 たとえば、机。しかし机は移動が難しい。あるいは、椅子。キャスターがついているものならば移動はスムーズだ。背もたれを前に向けて逆向きに座れば有用かもしれないが、その場合背後に大きな弱点を抱えることになる。カーテンがあれば使えるが、現代的オフィスにカーテンはなく、あるべき場所にはもれなくブラインドがぶら下がっている。

 私が「あれ」の代わりにブラインドを携えて会議室に入ってきたら、同僚や取引先の人間はいったいどう思うだろうか。しかも時おり気まぐれに、そのブラインドがペラペラとめくれるとしたら。新しい宴会芸とでも思ってもらえたら、まだ良いのだが。

 いけないいけない。またついつい考えが後ろ向きになってしまっていた。いずれにしろまもなく会社に到着するのだから、「あれ」を忘れたことなど忘れて、本日の仕事を全うするしかないのだ。

 私が気持ちを切り替えてそう決意したとき、ちょうど会社の最寄り駅に電車が到着したのだった。車両に残っていた乗客は、もはや私ひとりになっていた。さあ、今日も新たな一歩を踏み出すときだ。清々しい気持ちでホームへ身体を投げ出すと、私はたちまち数人に周囲を取り囲まれ、左右から強く肘を絡め取られたのだった。

「あれ」を忘れに忘れた全裸にスマホ一丁の私は、そうして駅長室へと連行されていった。


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