泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

書評『いつか深い穴に落ちるまで』/山野辺太郎

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まるで任天堂のような小説だ。荒唐無稽だからこそのワクワク感がある。けっして現実的な設定ではないのに、リアリティも手応えもふんだんにある。

だとすればリアリティの正体とはいったいなんなのか。読み手にそんな根源的な疑問を抱かせるというのは、それが良質である証拠だ。なにも小説に限らない。読み手の価値観を揺さぶってこその芸術でありエンターテインメントだろう。既存のリアリティの上に安住して、ものしり顔で正誤の判断を下すなどお笑いぐさだ。そもそも科学的な正しさ、つまり昨今流行りのエビデンスとやらと面白さとは、なんの関係もないのだから。

先日の『アメトーーク!』の読書芸人回で紹介されていたのをきっかけに、本書に興味を持った。文芸誌はそれなりにチェックしているはずなのに、こんな好みの作品を見落としていたのが恥ずかしい。だがおかげで気づくことができて良かった。

それにしてもこれを紹介したラランドのニシダという人は、油断がならない。こんなクリエイティヴな作品を見抜く力を持っていながらも、「お笑いコンビの、ネタをまったく作らないほう」であり続けているなんて、もはや解脱しているとしか思えない。読めば自分も何かを書きたくなるような小説である。

設定は番組でも紹介されていたとおり、「日本からブラジルまで穴を掘る」という無理無茶無謀なものだ。しかし冒頭で言ったように、これが荒唐無稽だからといってリアリティのなさを意味しない。むしろその「無茶」を中心に世界が成立しているような気がしてくる。飛行機だって携帯電話だって、それが発明されるまでは間違いなく「無茶」だったのだという事実を、思い出す必要がある。

などなど、言いたいことは色々とあるのだが、本作に関しては、文藝賞を授賞したときにおこなわれた磯崎憲一郎との対談が公開されている。これが本当に、すべての小説読者や表現者にも勇気を与えるような素晴らしい内容で、そこではとても重要なことが語られている。

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「予防線」「整合性」「科学的」――そういった作品に不可欠であるように見える諸要素をぶっちぎって書き切ったところに、この小説の凄味があるということに気づかされる。それらは作品に説得力を持たせる要素ではあるけれど、それは既存の現実世界における説得力であって、作品内世界の説得力はまた別のところから立ち上げる必要があるのかもしれない。

ところで、この小説を読んで文頭にその名を挙げた任天堂のことを考えたのは、ちょっと前に『ビジネスウォーズ 任天堂ソニー』(ニッポン放送ポッドキャスト)という番組を聴いていたせいに違いない。これが抜群に面白く、ファミコンを作った任天堂と、プレイステーションを作ったソニーのスタンスの違いを浮き彫りにする内容だった。

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この番組を聴いて僕が改めて考えたのは、任天堂の考えるリアリティとソニーの考えるリアリティの違いとはいったいなんなのか、ということだった。任天堂のキャラクターはコミカルにデフォルメされ、一方でプレイステーションのゲームに出てくるキャラクターは、リアルな人間の等身に近いものが当初から多かった。それは玩具メーカーと電機メーカーという、出自の違いから来るリアリティ解釈の違いなのかもしれない。

普通に考えれば、現実の人間に近い姿形のキャラクターのほうがリアリティは強いはず。だが任天堂の作り上げたゲーム世界の中には、むしろデフォルメされた等身のおかしなキャラクターのほうが間違いなくフィットする。その世界にいる限り、そちらのほうが圧倒的にリアリティを感じられるのである。そしてそれはむしろ、現実よりも僕たちを惹きつける。

それはキャラクターだけでなく世界観に関してもそうで、「キノコを食べると巨大化する」なんてエビデンスは現実世界にはないはずなのに、『スーパーマリオ』の世界の中では、それが妙な説得力を持って「なるほど、そりゃそうなるか」と思わされる。

作品世界の中には、その世界ならではの因果律というのがたしかにあって、それをいちいち現実の科学や理論で臆病に補強する必要はない。だけど制作者サイドは、「これはなぜこうなんですか?」と訊かれた際の予防線として、ついそういう既存の理屈に頼ってしまいがちだったりする。

フィクションだと言っているのに、エビデンスを求められるという不毛な傾向は、近年強まっているような気がする。刑事ドラマの中で、犯人がシートベルトを締めなければ苦情が殺到する昨今。

だがフィクションとは、本来これくらい自由なものなのだ。この小説を読んでいると、そんな開放的な勇気が湧いてくる。そこでは、ちっぽけな答えあわせなど意味がない。最後に前掲の対談より、著者の印象的な言葉を引用する。

(前略)結局最後まで、科学的にどういう原理でそれが可能になるのかといったところには自分の関心がいかなかったんです。そこにいったら、いかにそれが不可能かということをただ確認する作業になるんじゃないかという気もしたし、小説だったらもっと違う力で行けないところに行けるんじゃないか、と考えていたんです。

磯崎憲一郎は、それを「小説を信じる力」という言葉で受けた。その力を強く感じさせてくれる作品は、なんだかとても頼もしい。


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