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不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「話半分の男」

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 私と話半分の男の出会いは奇妙なものだった。ある日私が近所を散歩していると、蓋のない側溝に気をつけの姿勢で、仰向けに寝そべっている男が目に入った。その中年男性は、冬なのに半袖半ズボンを着用していた。私はなるべく目を合わせないように、その脇を通り過ぎようとした。だが見て見ぬふりを貫くというのは、思いのほか難しいものだ。

「いやマラソン大会の途中で、小川に流されてしまってね」

 男が唐突に、訊かれてもいない自らの事情を説明しはじめたのだった。周辺を歩く人はほかに見あたらず、男が私に話しかけているのは明白だった。私は無視して通過しようかとも思ったが、自らの手を汚さない範囲で、なんらかの助けを呼んでやるくらいはしてやるべきかとも思った。

 だが呼ぶとしたら警察なのか救急車なのか、どちらを呼ぶべきなのかがわからず戸惑ってしまった。あまり深入りしたくはないが、やはり話を聞かないことにはなんの判断も下せない。

「ほら、靴もすっかり脱げてしまってね」

 男は続けてそうも言ったが、その足もとをよく見ると、両足ともに履いているスニーカーはまだ完全には脱げてはおらず、かかとは外れていたもののつま先はまだ引っかかった状態でキープされていた。これを「脱げた」というだけならまだしも、「すっかり脱げてしまった」と表現するのはちょっと無理がある。

 そこにある種の言動のズレを見出してしまった私は、男の脇へしゃがみ込むと、ふと気になっていた最初の発言について訊ねてみようと思った。

「この側溝の先には、小川があるんですか?」
「側溝? この小川が?」

 男はいま自分が嵌まっている側溝のことを、どうやら小川と認識しているらしかった。ちょっと独特の感性を持った人なのかもしれない。やや興味をそそられた私は、続けて訊いた。

「先ほどマラソン大会の途中とおっしゃってましたが、ほかに走っている人たちはどこへ行ったんでしょうか?」

 これはやや意地悪な質問であったかもしれない。すでに皆ゴールしてしまい、男がここへ取り残されていることは明らかであるように思われたからだ。

「俺は他人とは走らないよ。マラソンとは孤独との戦いだからね」
「では、途中からおひとりで?」
「いや、最初からだよ」
「でもスタート地点には、わらわらと人がいたわけですよね?」
「いや、ひとりだよ」
「それは……ジョギングというのでは?」

 男はつまり話半分の男だった。それもかなり半分の。単に大袈裟な男であったなら、側溝のことをわざわざ「小川」程度の表現には収めないだろう。普通に「川」と言うか、あるいはより劇的に「激流に流された」と言ってみたり、物理的に限界突破させて「海」とまで言ってしまうかもしれない。

 それを「小川」と微妙に控えめな大仰さ(奇妙な表現だが事実そうなのだ)にとどめているあたりに、私は彼の中にある「正確に話を倍に盛りたい」という気持ちを、つまり聴き手であるこちら側にとって「話半分で聞くとちょうどいい」サイズ感にしたいという意志を、たしかに感じたのである。

 といっても、世の中の出来事のすべてが実際に計測できるものばかりではない以上、それが「ちょうど二倍」であり「ちょうど半分」であるかどうかには疑問が残る。

 本人が「マラソン大会」と言っていたものの半分にあたるのが、果たして「ひとりジョギング」で良いのかどうか。マラソン大会の参加人数が二人ということはさすがにないはずで、そう考えると少なくとも人数的に半分以下であることは、確実であるように思われる。

 だがその判定基準を、表面上の人数ではなく「孤独感」というような感覚のうえに置いてみると、たとえば二百人で走るマラソン大会を百人に半減させてみたところで、走者の孤独感は半分にまで一気に減ることはなく、ほとんど変わらないようにも思える。もしかすると二人で走るだけでも、孤独感のレベルは二百人のときとさほど変わらないのかもしれない。つまり孤独感を基準とするならば、二百人の半分も二人の半分も等しく一人であるということになる。

 結局自らの手を差しのべて男を側溝から助け出した私は、どうしてもお礼がしたいという男の願いを断れず、ごく普通の平凡な純喫茶のテーブル席で、コーヒーを飲む男を見つめながらそんなことを考えていた。私をこの店へ誘う際に男は、「お洒落な隠れ家的レストラン」という言葉を使った。たしかに隠れている感じはしたが、それは単なる不人気からであってレストランでもなく、どこがどう話半分なのかは微妙なところだった。

 目の前で液体をすすっている男は、注文したブラックコーヒーにテーブルにあったコーヒーフレッシュをちょうど半分だけ入れて、「やっぱりコーヒーはブラックですな」と悦に入っている。今回はどうやら単純に、「ミルクの量をパッケージの半分だけ入れた(=半分は入れなかった)」ぶんだけ大目に見てくれと要求しているようだった。

 それから男が口にした身の上話は驚くべき内容であったが、それはどこをどの基準で半分に解釈するかで大きく変わってくる話でもあった。

 男の話によれば、彼はNASAのロケットで様々な星に降り立った宇宙飛行士で、しかもサッカーと野球で優勝したこともあるアスリートであるとのことだった。それを男はいかにも自らの功績を誇るような口調で堂々と話してみせるのだが、聴き手であるこちらとしては、これを的確に話半分にサイズダウンするのにひどく骨が折れる。

 たとえば個別対応のスタンスをとって、まずNASAをサイズダウンしてJAXAに置き換えたとしよう。すると続くロケットも何かにスケールダウンする必要が出てくるが、ではロケットの話半分とはなんなのか。JAXAもロケットは作っているわけで、逆にロケットの半分にしか値しないものなどJAXAは作っていないような気もしてくる。選択肢としては人工衛星あたりが浮かび上がってくるが、だとすると男は人工衛星に乗って宇宙を巡ったというのか。

 そう考えると宇宙にまつわるすべての要素をいっぺんにサイズダウンして、男はかつて「プラネタリウムによく通っていた」くらいが妥当な線であるように思えてくる。そうなればサッカーの優勝は「『ウイニングイレブン』で何勝かした」になり、野球の優勝は「友達よりもレアなプロ野球カードを何枚か持っていた」くらいの話に自然となるだろう。

 私はそうして男の話を聞くことに、いや聞いた話を片っ端から半分にサイズダウンしてゆく作業に疲れ果て、一時間ほどしてようやく二人は席を立った。当初、男はたしか「助けてくれたお礼に」と言っていたはずなのに、いざレジへ行ってみるときっちり割り勘になっていて驚いた。さすが話半分の男と言うほかない。

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