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短篇小説「自転車通学者の恋」

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 純介は高校時代、男子校へ自転車で通っていた。おかげで彼はひとりの女子ともつきあうことができなかった。

 だがそれはけっして、貴重な青春期の行き先が男の園だったからではない。純介は、すべては自転車通学のせいだと思っている。自転車通学という手段は、即刻廃止すべきだとすら考えている。自分が動き続けている限り、恋など生まれようがないからだ。恋とは、どうやら止まった場所からしか発生しないものらしい。

 高校へ入学し、学校との微妙な距離感から自動的に自転車通学が決定したとき、純介は小躍りして喜んだものだ。彼は自転車に乗ることを純粋に楽しんでいたし、なによりも青春映画や歌謡曲で頻繁に描かれる、荷台に女の子が横座りして腰に手をまわしてくるタイプの、あの甘酸っぱい二人乗りの光景に、純介は大いなる憧れを抱いていたのである。

 しかし自らの自転車通学がはじまって半年が経つと、そんな光景は夢物語であり絵空事であり壮大なフィクションであったと、純介は気づかされることになった。

 それは「実際には二人乗りは道路交通法違反だから」などという野暮な現実のことを言っているのではない。問題はその遙か手前にあった。そもそも後ろに乗ってくれる女の子と出会うこと自体が、自転車通学者には絶望的に困難であるという事実を、その半年間で純介は存分に思い知らされたのである。

 自転車とは風景を飛ばす装置である。走り抜けた刹那、その空間にあった物も人も、片っ端からどこかへ弾け飛んでいってしまう。すれ違う人の顔を認識するのさえ困難な有様で、もちろん話しかけることなどできるはずもない。

 一方で純介の同級生男子たちには、入学後まもなく次から次へと恋人ができていった。言っておくが純介の見た目は悪くない。小中学校時代には、それなりに女子からちやほやされた記憶もある。そんな彼よりも明らかに見た目の劣る同級生らに先を越されてゆくことに、純介は苛だっていた。

 必ずや何か、自分自身とは別に原因があるに違いない。そう考えた純介は、恥を忍んで同級生らに恋人との馴れそめを訊いてまわった。すると驚くべき事実が判明したのであった。

 恋人ができている同級生はいずれも、徒歩通学及び電車通学の生徒であった。純介の通っている進学校ではアルバイトが全面的に禁止されていたため、女子との出会いのチャンスは必然的に通学路の上に限られた。放課後の学習塾での出会いもあるにはあったが、こちらは場所が場所だけに、「大学に受かってからつきあいましょう」となるパターンが少なくない。そうなればたいてい男のほうだけが落ちて、未然に終わるのがオチだ。

 ではなぜ徒歩や電車で通う奴らばかりがつきあえるのか? 純介は考えた。徒歩ならばまだしも、電車ともなれば自転車よりも遙かに高速での移動となり、純介が日頃から懸念している「風景の飛びっぷり」も自転車の比ではないはずである。

 だのに、自転車よりも速い電車のほうが出会いの可能性が高いのはなぜか? それは高速で走っているのはあくまでも電車という箱であって、その箱の中にいる人間はむしろ止まっているからだ。電車内にいる人間に比べれば、徒歩通学者のほうが逆に動きが速いとすら言える。これは純介にとって物理学及び恋愛学上の大発見であった。

 人が目にも止まらぬスピードで動いている状態の他人を好きになることは難しい。なぜならば、それでは相手の姿形をろくに認識できないからである。つまり人が人を好きになるためには、少なくとも相手が止まっている必要がある。両者が等しく止まっている状態であれば、その確率はさらに高まるように思われる。

 だが厳密にいえば、両者が物理的に正しく止まっている必要はない。たとえば電車内のように、両者が同じスピードで移動している状態であれば、それは止まっているも同然である。

 それに比べて、自転車通学はどこまでも孤独な走りだ。たしかに自転車とて、電車と同じく実際に移動しているのは自転車本体であって、漕ぎ手である人間本体は自転車の上で止まっているとも言えるが、隣に誰もいなければ止まっていても意味はない。

 自転車通学者の恋とは、なんて不利なのだろう。いよいよそう思い至った純介は、誰に断るでもなく勝手に自転車通学者を代表して、自転車通学者の恋愛向上に努めるべく、この日からその打開策を探る日々を過ごすことになるのであった。

 まず思いついたのは、同じく自転車に乗っている素敵な女性を発見し次第、その脇にピッタリつけて同じ速度で走り続けることだった。だがこれは気味悪がられるうえに意外とスピードを合わせるのが難しく、さらに二列横隊になると車道へのはみだしが大きくなり、車に轢かれる危険性が跳ねあがることから即座に却下された。

 そうなれば、もはや実際に止まる状況を利用するしかないだろう。自転車が止まる状況といえば、まず思い浮かぶのは信号や踏切の手前である。

 純介は信号で止まるたびに、よく首を振って周囲にタイプの女の子がいないかと懸命に探した。しかしその短時間でお相手を見つけたとて、瞬時に声をかけられる位置まで接近することもできず、ましてやまっさらな男子高校生が一期一会でそんな大胆なナンパ行為を繰り出せるはずもなかった。

 ここに至って純介は、恋愛における電車通学のもうひとつのメリットに気がついたのだった。彼らの言いぶんを聴く限り、電車内で初めて出会ったときに声をかけたという猛者はひとりもいなかった。

 通勤通学電車というのは、どういうわけかみな乗車時間と乗車位置をここと決めているようで、それゆえ毎日同じ時間に同じ車両で同じ乗客と顔を合わせることになるらしい。そうして日々同乗を続けているうち、徐々に互いを認識することで自然と警戒心が解けてゆき、まずは挨拶を交わすようになるというのが彼らの定番的手法であるという。

 では自転車でも、同じようなことができるのか否か。たとえ通学時間とルートが相手と共通していたとしても、毎日相手と同じ位置の赤信号で同時に止まるというのはさすがに難しすぎる。そもそも自分ひとりですら、昨日の赤信号と今日の赤信号が、まったく同じタイミングの赤信号かどうか定かではないだろう。今日の赤信号は昨日の赤信号よりひとつ後の赤信号かもしれないし、ひとつ前のそれかもしれない。

 やがてどうしていいやらわからなくなってきた純介は、不意にサイドカーを設置したりもしてみたが、むろんそこへ突如飛び乗ってくる勇猛果敢な女子などいるはずもなかった。

 しかしそれでも、純介は安易に電車通学へと乗り替えるわけにはいかなかった。彼の自宅からだと、駅を利用すればむしろ遠まわりになってしまうし、やはりひとりの誇り高き自転車通学者としては、のほほんと何も考えず突っ立っている電車通学者などに屈することなど許されるはずもない。

 今日も通勤通学電車の車窓から外を眺めてみれば、線路脇を一台の通学自転車が猛スピードで着いてくるのが見える。それは電車とまったく同じ速度で進んでいるため、電車内からだとまるで止まっているように見えるが、その足は狂ったように回転している。その自転車は毎朝同じ時刻発の同じ車両の脇を、コンスタントに走り続ける。

 はたしてここから恋は、生まれるのだろうか。あるいは無敵の競輪選手が。


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Somewhere in Time

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  • アーティスト:Iron Maiden
  • 発売日: 1998/08/15
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