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不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

短篇小説「縁起者忙殺録」

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 幸介はとにかくかつぐ男だ。どれだけ重いものをかつぐのかといえば、彼のかつぐべきその総重量は甚だしく大きいと言わざるを得ないだろう。そう、彼は縁起をかつぐ男。成功体験の数だけ、かつぐべき縁起がある。

 幸介は自身を幸福へと導く縁起を、それはもう起きた瞬間からかつぎにかつぐ。彼は起床時には、必ず左目から先に開けると決めている。

 これはけっしておかしな話ではない。縁起をかつぐからには、必ずそれだけの理由がある。幸介が左目から目覚めるようになったのは、彼がすこぶる楽しみにしていた小学校三年の運動会の朝、彼が早すぎる目覚めの時にたまたま左目から開いたことにより、天気予報の降水確率70%を覆す嘘のような快晴に恵まれたからだ。

 もっともそれは、彼の右目が前日発症したものもらいで開きにくかったという、のっぴきならない事情によるのだが。本当なら毎朝ものもらいをもらいたいところだが、そうもいかないため幸介は毎朝ものもらいを演じて目覚める。

 まずは左目を開き、次いで重たげに右目をゆっくりと開く。これが実は難しい作業であることは、それが目覚めの際に行われる行動であることを考えればすぐにわかるはずだ。何しろ睡眠状態から意識を取り戻した瞬間には、すでにもう縁起をかついでいなければならないのである。

 そう考えてみると、両目を開けてから「起きた」とようやく自覚する人間のいかに多いことか。そんな愚鈍なことでは、たいした縁起などかつげない。

 幸介がベッドから起き上がる際には、必ず「ワン!」とひと声あげてから立ち上がる。これは第一志望校の高校受験前日から当日の朝にかけて、幸介が犬として雪の中を元気に駆けずりまわる夢を見たためである。その日の試験問題に、「西郷隆盛」「徳川綱吉」「犬養毅」といったドッグフレンドリーな人々が出題されたのは偶然ではないだろう。

 彼がその高校に合格したことは言うまでもない。そういえば授業中、よく校庭に野良犬が乱入してくるタイプの高校であった。

 幸介は顔を洗う際に、必ず右手小指を鼻の穴に突き入れる。それは中二のバレンタインデーの朝、顔を洗っている最中にたまたま右手の小指が鼻の穴に突き刺さってしまい、そのおかげで初めて好きな娘からチョコレートをもらえたからだ。

 しかしその一撃によって朝から鼻血を噴出させた幸介は、鼻血こそいったん止まったものの、とてもデリケートな鼻粘膜の状態で登校することになり、放課後に意中の娘からチョコレートをもらった興奮でそのかさぶたが決壊。ちょっとした騒ぎになった。この話はのちに「血のバレンタインデー」と呼ばれ、いまだに母校で語り継がれているという。

 「とはいえ鼻血が出てしまっているのだから、これはかつぐべき縁起ではないのでは?」と思われるかもしれないが、幸介の中で「好きな娘からチョコをもらった」という事実がもたらす幸福感は鼻血によるマイナス値をはるかに上回っているため、「鼻血が出ない程度に指を入れる」という落としどころをもって、これは縁起の良い行動と認定されている。
 
 そして顔を洗い終えた幸介は掛け布団を五角形に畳み、やかんでいったん沸かした湯を全部捨ててから、もう一度沸かした湯でコーヒーを淹れ紅茶を淹れもう一杯コーヒーを淹れ、一杯目のコーヒーに砂糖をスプーン三杯入れてから二杯目のコーヒーにミルクをたっぷり投入、トースターでパンを一枚焼いてから、それが焼き上がったころに焼いてないほうのパンを何もつけずに一枚食べ、それを食べ終わったところで焼いたほうのパンを取り出してバターといちごジャムをたっぷり塗りラップに包んで冷凍庫へ、ここで東北東の方角を向いてすっかり冷めた紅茶を一気に飲み干し、二杯のコーヒーをひとくちも飲まないままシンクに流して六十秒間目を閉じる。

 この先も家を出るまでにかつぐべき縁起などいくらでもあって、そのせいで起きてから出社するまでに三時間はかかってしまうというのが、幸介のちょっとした悩み。


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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

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