泣きながら一気に書きました

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レジ袋有料化後の世界

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いま我々は、レジ袋有料化以後の世界に生きている。もうあと戻りはできない。いや、しようと思えばできるんだろうけど。

レジ袋が完全有料化されたおかげで、あちこちで珍妙な光景を頻繁に見かけるようになった。

弁当と缶コーヒーと漫画雑誌を両手いっぱい胸いっぱい抱えたまま、コンビニからふらふら出てくる人。たった三円の袋代をどうしても払いたくないあまりに、レジ係に長時間ブチ切れて列を渋滞させる人。レジ袋の代替物をひらめいた俺天才とばかり、サッカー台にロールされている無料の透明ビニール小袋を何枚か巻き取って、なんとかそこへ買った物を一個ずつ収めたはいいが、取っ手がないため滑りやすいそれらをどう持っていいものやらわからなくなって途方に暮れている人――。

そういった困難を味わうことによって、ある者は複数の物体を持ちやすい形にまとめてくれる「袋」という物の重要性を、ある者は三円という極小通貨の価値を、ある者は「取っ手」という画期的なアイデアのありがたみを、各自改めて痛感しているとも言える。

考えてみれば、我々は必ずと言っていいほど常に何かを運んで移動している。たとえば街を歩くにしても、人間はただ単に歩いているのではなく、ある意味でそれは確実に何かを「運んでいる」のである。

ポケットや鞄の中には家の鍵があり財布があり、さらに財布の中には紙幣や貨幣やカードが入っている。出先で買い物をすればさらに何かを持ち帰らねばならないし、本当の意味で何も運ばずに歩いている状態など滅多にあるものではない。極端に言えば、人は内臓を運んでいるとも言えるわけで(言えるのか?)。

レジ袋がここまで徹底して有料になってしまうと、困るのは生ゴミをまとめるのにちょうどいいゴミ袋が手元になくなるということで、案の定薬局ではレジ袋サイズの取っ手つきビニール袋が売れている。

「レジ袋」というその名前から、レジ袋というのは商品の持ち帰りにしか使われないと思い込んでいるのはいかにも現場を知らない政治的な、額面通りの考えであって、その便利さはレジ袋の範疇を明らかに超えているということを、日常生活者ならば誰もが知っている。

こういう政策を考える人たちは、レジ袋など持ち帰って袋から商品を出したらポイとすぐに捨てられるもの、という大前提でものを考えているのだろうが、それではあまりに想像力が足りない。彼らは消費者の知恵もレジ袋のポテンシャルも、あまりに低く見積もりすぎている。

そうやって結局同じようなサイズと形状のビニール袋を、今度はゴミ袋として改めて買うことになるのだから、レジで袋を有料化してみたところで、世の中における袋の総数がさほど減るとは思えない。

とりあえずレジ袋を逐一レジで買うよりは、薬局で数十枚単位のビニール袋を買ったほうが安いような気がする(まだちゃんと計算していない)ので、しばらくはそうすることになるだろう。

個人的にはだいぶ以前から大きめのショルダーバッグをエコバッグとして持ち歩くようにしているので、実のところ商品の持ち帰りに関してはさほど変化はなく、単純にちょうどいいゴミ袋のストックがなくなる、というだけの問題ではあるのだが。しかしそれだけの問題であっても、問題は問題であることに違いはない。必要なものは結局必要なのだから。

こうなってくると、「次に有料化されるのは何袋なのか」という話である。

コブクロはもうとっくに有料化されているが、やがて動物園ではカンガルーのエリアだけ特別料金を取られるようになるだろう。Yahoo!知恵袋が有料化される日も近いかもしれないし、そうなればその元ネタであるおばあちゃんの知恵袋だって当然有料化すべきだろう。孫はお婆ちゃんにお年玉をもらって昔話を聞かされるのではなく、むしろギャラを払って有難いお知恵を授かるのだ。我々の体内にある胃袋や堪忍袋も、そのうちノーギャラでは働いてくれなくなるかもしれない。

そして毎度数円を払いたくないあまり、胃袋と堪忍袋を体内レジ(どこ?)で断る者が続出して、腹を空かせた極度に怒りっぽい人間が世に放たれる。ディストピアはもうすぐそこにある。


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