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書評『ハンバーガー殺人事件』/リチャード・ブローティガン

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「人生は選択の連続である」という言葉がある。自分でもそれを痛感することは多い。試しに検索窓にそう入力してみると、「シェイクスピア」や「ハムレット」といった関連ワードが出てくるが、もう少し調べるとシェイクスピアの『ハムレット』にそのような言葉は見当たらないらしい。

改めてネットにはデマが多いなと警戒心を強めつつ、逆に言えば誰が言ったのかわからないくらいに広く共感を得ている言葉なのだとも取れる。人生には前向きな選択肢も後ろ向きな選択肢も常にあるが、この言葉は後悔を引き連れて放たれることが多いような気がする。「学生時代、もっとちゃんと英語を勉強しておけば……」というような。

もちろんこれは成功者が放っても説得力を持つ言葉ではあるが、この言葉の裏には多くの場合、「あのときああしていれば良かった」という取り返しのつかない想いが貼りついている。

とはいえ、それは一種の「隣の芝生は青く見える」方式で、自分が選ばなかった選択肢が無闇に輝いて見える(だが実際に選んでみるとそれはそれで苦労がある)、というバイアスのかかった物の見えかたであるようにも思う。

選ばなかったほうの選択肢の先の道は必ず途切れているから、その先に何が待っていたのかは誰にもわからない。もしかしたら、どちらの道を選んでも同じ場所へたどり着いていた可能性だって、ないとはいえない。

ブローティガンの遺作となった本作の冒頭は、まさにそんな「選ばなかった選択肢」に対する後悔の念からはじまる。主人公の少年である「ぼく」はある日、レストランとガンショップが並んだ場所を通りかかる。

どうしてハンバーガーよりも弾丸のほうが欲しかったのかと思わずにいられない。ガンショップの隣にはレストランがあったのだ。ハンバーガーがとてもうまい店なのだ。けれど、空腹ではなかった。

人生には時に、なぜだかわからないが選び取ってしまう選択肢というのがある。いやもしかすると、ほとんどがそうなのかもしれない。

この一節を読んで、僕はカミュ『異邦人』の主人公・ムルソーが殺人の動機を訊かれた際に答える「太陽がまぶしかったから」という台詞を思い出した。あれに比べると、こちらのほうがまだ「ハンバーガーを選ばなかった動機」としては成立しているとは思うが、しかしだからといって空腹がガンショップに入る動機とはなり得ない以上、どちらの動機も裁判では説得力を持たないだろう。

しかしそういう、得も言われぬ動機で選択肢を選び取ってしまう瞬間が人生には少なからずあって、それをなんとかして表現するのが文学の、そして芸術の役割であり面白さであるとも思う。

ちなみに本作は先の引用のような、重くノスタルジックなトーンではじまるが、とはいえそこはブローティガン。設定やキャラクターや台詞の随所に、軽妙なユーモアが盛り込まれている。

軽トラに積んだ家具一式を、毎度わざわざ池の脇に並べて釣りをする男女。製材所の掘っ立て小屋に住み、換金可能なビールの空き瓶を子供たちにくれるアル中の夜警。釣り客に餌のミミズを売るほうが、ガソリンの売上より多い本末転倒なガソリンスタンド――。

不可思議なこだわりを貫く人物が次々登場するが、その姿は滑稽でありながらも、やはりその裏にはたしかな哀しみが貼りついている。しかし状況を観察する作者の視点は、マイナス要素も含めすべての要素を包み込むような、包容力を感じさせる懐の深いユーモアを内包している。

ぼくは、うきを見つめながらあの人たちを待つ。うきはメトロノームか何かのようにぷかぷかと浮き沈みしている。針の先では餌につけた虫がおぼれかけている。一気に虫を楽にしてやろうなどという優しい魚がいないからだ。

そしてこの作品を最後に、ブローティガンは短銃自殺を遂げてしまう。読者として、作者がその選択肢を選び取ったことが残念でならない。しかし彼には常にそういう選択肢が見えていたからこそ、誰もが目を背ける場所に注ぐ視点を持っていたからこそ、こういう物語を書けたのだとも思う。



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