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短篇小説「動機喚起装置もちべえ」

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 私はついに動機喚起装置『もちべえ』を手に入れた。これさえあればどんな願いも叶えたようなものだ。なにしろ成功する人間にもっとも必要とされるものは、実のところ斬新な発想でも強固な人脈でも漲る行動力でもなく、それらすべての原動力であるところの「動機」であるからだ。

 物事のスタート地点には、必ず動機というものが存在する。動機なきところに成功などあり得ない。明確な動機なしにはじまったプロジェクトは、内容を問わず途中で推進力を失い必ず頓挫することになっている。動機なき言動に人を動かす力など微塵もないからである。

 人がことをはじめる際にもっとも持ちあわせていなければならないが、自らの意志ではけっしてつくりだすことができないもの。それこそが動機だ。

 そんな偉大なる「ゼロイチ」を可能にしたのが、この動機喚起装置『もちべえ』であるというわけだ。『もちべえ』の見た目は、全自動もちつき機となんら変わらない。その作業工程も、ひとつを除けば通常のもちつき機と同じである。もちろんできたもちは食べることができる。いや、それを食べなければ意味がない。

 うすにもち米と水を入れ、蓋をしてスイッチを入れる。たったそれだけのことだが、『もちべえ』でモチベーション入りのもちを作るためには、蓋をする前にうすの中へ、本人の口から「夢」を吹き込む必要がある。

 といっても、寝ているあいだに観た夢を吹き込めというわけではない。ここで言う「夢」とはつまり、大きな目標という意味の、現実の延長線上で叶えるべき「夢」のほうである。何も難しいことはない。

 いわば「夢」から逆算して「動機」を生み出すという、通常のサイクルとは真逆のことができてしまうというのが、この機械の画期的かつ魔術的なところである。この装置においては、いわば「夢」こそが「動機」の素材であるというわけだ。

 たとえばプロ野球選手になりたい少年がいたとする。彼は間違いなくプロ野球選手になりたいと思ってはいるのだが、残念ながらなぜそうなりたいのかは自分でもわからない。本人はただただ野球が好きなだけなのだが、それだけでは明らかに動機として弱い。それでは厳しい練習の中で野球を嫌いになってしまった一瞬の隙に、簡単に夢を諦めてしまう可能性がある。

 コーチからの叱責や愛の鞭、肉体と精神の限界まで追い込む走り込みや筋トレ、試合中のピンチやチャンス各場面で容赦なく襲いかかるプレッシャー等々、野球を嫌いになりかねない状況は必ずや多々訪れる。

 そのような状況下においても安易に夢を諦めないためには、たとえ野球を嫌いになっても続けさせるだけの強い動機が必要となる。逆に「好き」の範囲内だけでやりたいのであれば、一流選手になる夢は諦めたほうがいい。

 そういう意味では、「夢」と「動機」はある程度かけ離れていたほうが良いと言える。「野球が好きだからプロ野球選手になりたい」「飛行機が好きだからパイロットになりたい」、そんな具合に夢と動機が一致していると、対象を嫌いになった瞬間に夢が終了してしまうからだ。

 実際のところ、私の友人が半年前にいち早くこの『もちべえ』を入手し、野球選手に憧れている息子に作ったもちを食べさせたという。もちろんその際には、もち米と水を入れてから蓋をする前に息子を連れてきて、「立派なプロ野球選手になりたい!」とうすに向けて大声で叫ばせたことは言うまでもない。

 友人の息子は出来あがったつきたてのおもちを、きなこと砂糖をまぶしてたらふく食べた。

 息子はそれまで、野球が好きだ、野球選手になりたいと口では言うものの、日曜の少年野球クラブの練習が雨で急遽中止になった際には小躍りして喜び、一日中家でゲームに興じていることがあったという。好きといっても所詮はそんなもので、誰しも好きな競技の部活に入っておきながら、練習がなくなると大喜びした経験はあるだろう。

 だが友人曰く、そんな息子の態度がこのもちを食べた日から明確に変わったという。雨で練習がない日にも部屋の中でバットの素振りを延々とやるものだから、替えても替えても畳がすり減って大変だと、友人はすっかり嬉しい悲鳴を挙げていた。

 では少年は『もちべえ』によっていったいどんな動機を与えられたのか。それはごくごく単純でありがちな、だからこそ強力な動機であった。

 少年はさらに幼いころ、難病に冒され入退院を繰り返していた。そしてある日、担当医の勧めにより大きな手術を受けることになった。しかし少年はそれを頑なに拒否する――。

 さあ、これ以降はもう説明しなくとも、賢明な皆様には透けて見えるようにおわかりになるだろう。野球が大好きだった少年のもとへホームラン王が訪れ、彼がホームランを打ったら少年は手術を受けると約束し、次の試合で彼は実際に特大ホームランを放ち、少年は約束どおり手術を受けたのである。

 そして約束の際には同時に、少年はホームラン王と小指を絡ませ、「病気が治ったら僕も必ずプロ野球選手になってホームラン王になる」と指切りげんまんしたのであった。

 これらはもちろん動機喚起装置『もちべえ』が生み出したもちに練り込まれていた「動機用記憶」であり、すべて事実とは異なるフィクションである。少年は実際のところ大きな病気になどかかったこともなければ、手術もしたことがない。腹にちょっとした傷跡はあってそれを手術痕だと少年は固く信じているが、実のところポテチを食べながらお腹を掻きすぎた際にできたものである。

 だがそのもちを口にした少年の脳内において、ホームラン王とのエピソードは紛うかたなき事実として記憶されており、そこに一切の揺るぎはない。

 一度など、友人が夜遅く酔っぱらって帰宅した際に、ふらふらと千鳥足で和室を通りかかると、真っ暗闇の中うなりを上げるバットスイングの軌道に誤って足を踏み入れてしまい、頭蓋骨骨折の大怪我を負わされたと彼は嬉しそうに語っていたものだ。

 彼はその二日後に笑顔を浮かべながら死んだ。父親の死すらも、息子にとっては野球を続ける強い動機になった。

 その他にも、教師を夢みる者には「人の漫画を強制的に取り上げて読みたい」という動機が、刑事を夢みる者には「異様に高い位置から紅茶を注ぎたい」という動機が、医者を夢みる者には「額にCDのような円盤型反射物をくくりつけたい」という動機が与えられた。

 つまり正確に言えば、これは「動機喚起装置」ではなく「動機捏造装置」であった。しかし結果的に夢が叶うならば、利用者本人にとってなんの問題もないだろう。

 さて、それでは私はこれから、どんな夢を叶えてもらうことにしようか。大金持ちになりたい? 絶世の美女と結婚? いやいや、そんなものではない。叶ってからのお楽しみだ。

 私は自らの夢をうすに吹き込むと、『もちべえ』のスイッチを入れた。そして出来あがったもちを勢い良く口に入れた。勢いが良すぎたのかもしれない。私はもちを喉に詰まらせてしまった。息が苦しい。私の喉には「もち」という名の「動機」が詰まっていた。いや、「動機」という名の「もち」か。この際どちらでもいい。とにかくいま喉にあるものを、いち早く取り除かなければならない。これが「もち」ならば、取り除けるのかもしれない。だがこれが「動機」ならばどうか。いったん生み出された「動機」というものは、はたして取り除けるものなのかどうか。だんだんと気が遠くなってゆく。結局のところ私はこのまま、身に憶えのない「動機」に殺されてしまうのだろうか。

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