泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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『小説作法ABC』/島田雅彦

タイトルに偽りはない。つまり本書が教えてくれるのは、作法のみでありABCまでである。それ以上は、あえて踏み込んでいないように見える。

著者はあとがきで、この本を自ら教科書と呼んでいる。本書は大学の講義をまとめたもので、「全国の大学、高校、コミュニティ・カレッジ、カルチャー・センターで」テキストとして使って欲しいという。このあとがきを読んで、本書の内容がいまいち浅いことに納得がいった。文学界で常にひねた態度を貫いてきたあの島田雅彦がこういうまっとうな教科書を書くことには、猛烈な違和感がある。

保坂和志高橋源一郎の優れた小説論のあとだけに、期待はずれ感は大きい。もちろん狙っている層が違うのだろうが、読み物としての面白さは、上記二人の小説論にくらべて確実に劣る。というか、そこを目指していない。しかし面白くないものに、説得力はない。

小説の構成要素をかなりアバウトに分類して並べてあるその姿は、いかにも教科書然としている。だがその分類の根拠は希薄で、汎用性に乏しい。いかにもその場のノリで喋ってしまったものを、あとで何となく見ばえ良く整理しているのが伝わってくる。

何よりも一番の問題は、ここで島田雅彦が語る小説というものが、すでに安定してそこにある「完成品」として語られていることだろう。優れた小説論は往々にして、「小説とは何か?」をめぐる考察だけで終わってしまうものだが、そういった根本的な疑いが、本書からはどうも感じられない。

教科書とはそういうものだ、といえばたしかにそうで、英語の教科書には「英語とは何か?」なんて項目はないし、数学の教科書は数学自体を疑ったりしない。だが本質を疑わないというのは、小説からもっとも遠い態度なのではないか? この安定した語り口は、教科書的でもあり、ビジネス書的である。少なくとも島田雅彦の小説を読むような純文学読者は、そういったものを「胡散くさいもの」として忌み嫌うはずだが、皮肉にも本書はそちら側についてしまっている。

「教科書というのは答えが書いてあるべきものであり、迷いは許されないものだから」という過剰な意識が、作者の根底にはあるように思う。生徒とともに考えるための素材ではなく。だが生徒にとって本当に有効なのは、先生がすでに持っている「答え」ではなくて、先生がずっと「悩み考えてきたこと」だったりする。そこは出し惜しみしたというのも充分に考えられるし、教授としての体裁を保つために隠した、という意地悪な見方もできるが、そこを書いてくれなければ意味はない。

結局のところ本書は、「教科書に書いてあることを鵜呑みにするような人間は小説家には向いていない」ということが逆説的にわかる本でもある。小説論としては、彼の初期エッセイに散見されるもののほうがよほど重要である。

小説を「ともに考える」ことは可能だが、「教える」ことは無理なのだなと、本書を読んで改めてそう思った。

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