泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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書評『フェルディドゥルケ』/W. ゴンブローヴィッチ

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とにかく徹頭徹尾ふざけまくっている小説である。この小説を真顔で読み終えることのできる人は、人生のあらゆる局面で「もっともらしい」人や物に騙されている可能性が高いので充分に気をつけたほうがいい。もちろん極度の「悪ふざけ」と極度の「生真面目」は、いつだって通底しているのだが。

これは世の中の常識に対抗するやけっぱちの文学であり、20世紀版『地下室の手記』(ドストエフスキー)である。全編が「何やってんだコイツ」のオンパレードであるという意味で。

こういう過剰性に満ちた小説を飲み込むと、巷でよく言われる「共感」というのは、なんて狭苦しい感動なのかと思う。小説に限らずエンターテインメントを選ぶ際に、「共感できるかどうか」を鍵にチョイスする向きは多い。

むろんそれは入口程度にはなり得るとは思うが、「共感」だけではなんとも底が浅い。「共感」とはつまり、「作品の中に今の自分(=読者)と同程度の感覚が存在している」というだけであって、言ってしまえば「今の自分が持っている以上のものが作中には存在していない」ということになるからである。

それはすでに知っている感覚を再確認する「確かめ算」を、わざわざ行って安心しているだけだ。そこには刺激も発見もない。学生時代に算数や数学のテストを受けるたび、教師に「余った時間で確かめ算をしなさい」と頻繁に言われたものだが、あれほど退屈な作業はなかった。だが大人になると、ただ自分の現状に安心を得たいがために、確かめ算をやりたがる人間が増える。

それは真面目なのではなく、むしろ発見をサボり続ける不真面目な態度である。そういった了見の狭い「大人」には、この人間の未熟さを追求し続ける小説は、まったく響かないだろう。だが「共感」よりも「違和感」の中にこそ楽しみを見出せる人にとっては、これほど面白い作品は滅多に存在しない。

ある日、三十男である主人公が、叔父の強引な導きによって十代の学生が通う学校に突如編入させられる。そこで学生間の派閥争いに、つまりはヤンキーと優等生の幼稚な闘争に巻き込まれるわけだが、その決着をつける手段が謎の「にらめっこ大会」というわけのわからなさ。

いや実際のところ、読んでみるとそこまでわけがわからないというわけでもない。「共感はできないけど気持ちはわからないでもない」という、絶妙にギリギリのラインに踏みとどまっている。人間は、共感できないことでも理解することはできる。

さらにそんな主人公周りの学生生活を描くメインストーリーの合間には、関係がありそうでないような、なさそうでありそうな別の話が組み込まれ、また作者の趣旨説明までが無遠慮に挟まってくるというトリッキーな構造になっている。ここでも著者は、小説を小説たらしめるディフェンスラインギリギリに至るまで、小説という枠組みを攻めたてているように見える。

しかしこれらの脇道がそれはそれでまた面白く、単なる構造的な実験に終わっていないのが本作にねじれた深味を与えている。たとえば「子供に裏うちされたフィリベルト」という、本編とはまったく異なる登場人物と背景によるテニス世界選手権のシーン。そこでは観客席の大佐が空中を飛び交うボールを銃で撃ち抜くという謎の行動を起こし、その後の混沌とした状況下における不可解な現象が以下のように描かれる。

その刹那、これまで一部始終をつぶさに近くで目撃させられるはめとなった一紳士が、この惨状にいたたまれず、自分より、一段、低い席のとある婦人の頭に狂ったように跳びおりたのであったが、この婦人がなんとまたその拍子に立ちあがると、頭に紳士をのせたまま、全速力でコートに跳びだしたのである。

そしてこの謎の行為は、どういうわけか会場全体に伝播してゆくことになるのだが、これぞまさに「何やってんだコイツ」と言うほかない、事実らしく見せようという調整がまったく感じられないシーンである。

普通に考えれば、こんなことはどう考えても物理レベルであり得ないわけで、ここにはリアリティなど欠片もないように思える。しかしそこで表面的な行為ではなく、その裏にある精神的な動きに目を向けるならば、ここにはむしろ圧倒的なリアリティが隠されているように感じられるのである。

その映像的なバカバカしさに呵呵と笑いつつも、その向こう側に人間が捕らわれがちな因果律が透けて見えてくることに、思いがけずドキリとさせられやしないか。滑稽な言動が不意に真実のど真ん中を射抜く鋭さを隠し持っていることを、改めて痛感させられる。

本作はドストエフスキーが卑屈文学の名作『地下室の手記』において、自らの弱点を「こじらせてやれ!」と叫んだあの八方破れなやけっぱちの精神を、文字通りさらにこじらせた果てに浮かんでいる。これぞまさに滑稽純文学の極みである。


フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)

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餃子を相殺する方法

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「相殺」という画期的なシステムを、生活に取り入れてみることにした。

ことの起こりはこうだ。近所に、以前から入ってみたいと思っていた餃子屋があった。しかしひとりで入って餃子とライスだけ食って出てくるのは、なんとなく申し訳がない。どうやら世の中的には、「餃子にはビール」ということになっているようだからである。ちゃんと見ていないが、なんとなくみんなビール片手に餃子を食しているように見える。ちゃんと見ていないのだが。

僕は酒が飲めないから、ビールはどちらかというと敵である。飲むと気分が悪くなるものが敵でないはずがない。他人が飲むぶんには構わない。ちなみに麦酒でなく麦茶ならば味方だ。麦に罪はない。パンとか毎朝食うし。

そんなことはどうでもいい。ついに僕は「餃子屋でビールを頼まない」という強い覚悟を持って、ひとり餃子屋に入店した。ふたりで来て、片方がビールを飲まないという状態は自然であるように思う。しかしひとりで来た客が、ビールを頼まないというのがどれほどのものか。見極めてやろうじゃないか。

勧められた席に着席すると、メニューを見る前に「餃子何皿いきますか?」と店員に訪ねられいきなり焦った。そうだここは餃子屋なのだった。客がメニューを見なくとも、餃子を頼むに決まっていると店員は踏んでいるのだ。そして餃子屋を名乗っているからには、彼には当然そう決めつける権利がある。

僕はとっさに「あ、じゃあ一皿で」と答えた。「じゃあ」と受け身な言葉を放った時点ですでに負けなような気もするが、ならばとこちらも攻めに転じて「ライスもお願いします」と即座に切り返した。そして店員は待った。ふた呼吸くらい待った。その二吸い&二吐きは当然、「あとビールも」と来ると待ち受けている「間(ま)」である。

しかし僕はそこで注文を打ち切った。なぜならば僕はビールが飲めないうえに、ここはビール屋ではないからである。当然の権利を行使したというほかない。すると店員はいったん厨房に餃子一皿とライスの注文を伝えてから、思い出したように戻ってきて「あ、水でいいですか?」と訊いてきた。親切な店員である。僕は「はい」と答えた。すぐに水が来た。大ジョッキで。

完全にビールの想定じゃないか。「側」だけビール。こんなに大量の水、飲めるはずがない。そこに某かのメッセージを感じつつ、僕は餃子を待った。しばし待ったところで、餃子が来てライスが来た。その横には水のたらふく入った大ジョッキが鎮座している。

この店の餃子は、肉汁餃子と書いてあるから滲み出す肉汁が売りらしい。もちろん気をつけてはいた。だからひと口ではいかなかった。

だが半口で噛み切ったその裂け目から、親の仇敵のように大量の肉汁が口腔内へと流入してきた。美味かった。しかし熱かった。そのマグマに口内を蹂躙された。案、そして定、つまり案の定である。秀吉による備中高松城水攻めを思い出した。どこであれ液体は逃げ場を奪う。

幸い口内の火傷被害はたいしたものではなかったが、勘定を済ませ家に帰る途中、僕はこの餃子に対する恐怖をなんらかの形で払拭しておく必要があると思い立った。次にまた餃子を美味しくかつ安全に食するために。

あるイメージを払拭するためには、正反対のイメージで上書きすれば良い。そう、つまり「相殺」という手法である。僕は家に着くとそそくさと冷蔵庫に向かい、冷凍庫から買い置きしてあった冷凍餃子を取り出すと、それをしばし眺めたうえでスマホで撮影。それら一連の行為により、灼熱餃子のイメージを冷凍餃子で冷却し「相殺」することに成功した。

おかげで、餃子の安全性が脳内で再認識されたような気がする。ただしそのせいで、「灼熱」と「冷凍」のちょうど中間地点にある「常温」あたりの位置で餃子のイメージが定着してしまい、常温の餃子はあまり美味くないような気がした。となると餃子のイメージを若干レンジでチンする必要があるかもしれないと思い、レンジの蓋を開けそこへ頭を突っ込もうかと考えているところ。


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「新語流行語全部入り小説2017」

 ある金曜の夜、営業課長の栄村富夫が取引先の社長と猛烈にインスタ映えする最高級天ぷらを食している間に、デーモン閣下の娘(魔の2回生)であり彼の妻であるポスト真実(まみ)は、毎晩のように経費で遊びほうける夫に愛想を尽かし実家(地獄)へと帰還してしまったのであった。

 この人生最悪の日について、ことあるごとに最高級天ぷらの味とともに思い出す富夫はこれを「プレミアムなフライを食べた日=プレミアムフライデー」と名づけたがそんなことはどうでも良い。問題は、妻の真実が富夫との間にもうけた銀座生まれの六つ子を残していってしまったことである。

 祖父の才能が隔世遺伝したのか、六つ子はのちにGINZA SIXというバンドを結成。派手なメイクと過激な歌詞を前面に押し出した炎上商法によりそこそこのヒットを飛ばすものの、地獄由来の危険思想と六つ子の現実をアウフヘーベンした楽曲「空前絶後刀剣乱舞ハンドスピナー」の反社会的な歌詞とパフォーマンスが波紋を呼ぶ。

 問題の楽曲は悪魔の格好をした六つ子が巨大な刀や独楽を振り回しつつ、現政権の政策ひとつひとつに対し「ちーがーうーだーろー! ちがうだろ!」と叫ぶことで断固たる対決姿勢を表明するというもので、この曲により彼らは共謀罪で逮捕されることになるのだが、それはまた別のお話。

 さて、一夜にしてシングルファーザーとなった富夫に容赦なく襲いかかった喫緊の課題は、むろん六つ子の育児をどうするかということである。世の中では働き方改革などと叫ばれてはいるが、もちろん現実はそんなに甘くない。それがさらに働く父親による六つ子のワンオペ育児となればなおさらである。さらに家には、妻が地獄の番犬として育てた2匹のけものフレンズまでいる。

 何度か人事部との話し合いの場が設けられ、富夫は出世と引き替えに定時で帰れる部署へ異動させてもらうことになった。しかしそれだけで楽になるほど六つ子の育児は甘くない。仕事から帰っても家事と育児でとにかく寝る暇がなく、睡眠負債がどんどん溜まっていった。

 しかも小学生の六つ子たちは、毎晩もれなくふとんに鮮やかな線状降水帯を描いた。早起きして六枚のふとんをベランダに干しまくるという、思いがけぬ重労働からシングルファーザー富夫の一日は始まる。子供のおねしょには、ふとんに対しても父に対しても一切の忖度がなかった。六つ子は容赦なく、六つ子ファーストなライフスタイルを父に求めた。

 富夫は時に思った。妻は地獄へ帰ったというのに、これでは残された俺のほうが地獄にいるみたいじゃないか。

 まずは自らの睡眠を改善しないことには、本当に死んでしまうような気がした。来たるべき人生100年時代に、これではその半分も生きられないかもしれない。この家に限っては、時はむしろ「人間50年」の戦国時代であった。

 慣れない日々の育児ストレスからか、富夫はふとんに入ってもなかなか寝つけなかった。睡眠の「量」を確保することが無理ならば、せめて「質」を高められれば。彼はネットで快眠法について調べるうち、ひとりのユーチューバーが勧める画期的睡眠法へと辿りついた。それがのちに一世を風靡する「ひふみん(皮膚眠)」である。

 ひふみんとはつまり、人と人とが皮膚と皮膚をくっつけて眠るということである。「人は多くの人と肌を寄せ合って眠るほど深い眠りに至る」というのがひふみんの根本思想であった。動画では幼い三兄弟が川の字で寝ていた。幸い彼には六つ子がいる。さらに倍である。富夫は篠沢教授に思いを馳せた。

 その日から富夫と六つ子は全員全裸で肌を寄せあって眠ることにした。すると悪かった富夫の寝つきもすっかり改善され、10秒の壁を破りふとんに入って9.98秒で眠ることができるようになった。と同時に、四方八方からおねしょが容赦なく飛んでくるというデメリットも当然のようにあった。

 教育は、自然と学校まかせになった。だが子供たちも、うんこ漢字ドリルだけは家で父とやりたがった。そして不思議なことに、うんこ漢字ドリルをやった翌朝には、六つ子のおねしょがピタリと止むのだった。むろん、やらなければ出放題である。因果関係は不明だが、うんこ漢字ドリルは彼にとってその場しのぎの救世主となった。

 やがて六つ子は音楽の道へと進んでゆくことになるが、実はその父親である富夫にも、ミュージシャンを目指してバンドを組んでいた学生時代があった。彼はその昔TMネットワークの大ファンであり、自らもそのコピーバンドをやっていたほどで、もしうつヌケ、つまりヴォーカルの宇都宮隆が脱退するようなことがあれば、いの一番に新ヴォーカリストに立候補してやろうと狙っていた。

 しかしそんな折に入ってきたのは、TMNではなくチェッカーズから藤井兄弟が抜けて解散したという藤井フィーバーの報であった。富夫もまた、のちの息子らが歌ったのとまったく同じトーンで、このとき「ちーがーうーだーろー!」と叫んだという。うつヌケは彼の中だけのフェイクニュースに終わった。

 そんな父親がある年、息子たちに贈ったクリスマスプレゼントが、彼らを音楽に目覚めさせるきっかけを作ったのかもしれない。それはかの名曲「愛のメモリー」だけを流し続けるAIスピーカーなる最新鋭の商品で、それ以外の音源は一切再生できないにもかかわらず、全世界で35億台の売り上げを記録している。

 時を経て六つ子がヒットを飛ばし逮捕されやがて保釈され帰宅したその夜、そんなAIスピーカーから突如けたたましいJアラート音が鳴り響いた。妻が地獄から帰ってくるのかもしれない。

新語・流行語大賞2017 候補語一覧》
アウフヘーベンインスタ映え/うつヌケ/うんこ漢字ドリル/炎上○○/AIスピーカー/9.98(10秒の壁)/共謀罪/GINZA SIX/空前絶後の/けものフレンズ/35億/Jアラート/人生100年時代/睡眠負債/線状降水帯/忖度(そんたく)/ちーがーうーだーろー!/刀剣乱舞働き方改革ハンドスピナー/ひふみん/フェイクニュース/藤井フィーバー/プレミアムフライデーポスト真実魔の2回生/〇〇ファースト/ユーチューバー/ワンオペ育児

※本文中には、新語・流行語の意図的な誤用が含まれております。各自正しい意味をお調べになることをお勧めします。
※この小説は、新語・流行語大賞の候補語30個すべてを本文中に使用するという、きわめて不純な動機のみで書かれたフィクションです。


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