泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

     〈当ブログは一部アフィリエイト広告を利用しています〉

短篇小説「ブルーレットをおくだけで」

f:id:arsenal4:20171102213308j:plain:w450

 そうブルーレットは、おくだけで良いのである。

 ではいったいブルーレットをおくだけで、何が起こるというのか?

 便器が綺麗になる? そんなのは当たりまえだ。

 ブルーレットをおくだけでもっと様々な変化が起こらないのなら、わざわざ『ブルーレットおくだけ』なんていう、思い切った商品名をつけるはずがないではないか。

 つまりブルーレットをおくだけで、世の中にはあらゆることが起きている。もしもあなたがブルーレットをおいていなかったら、あるいはおくだけでなく余計なことをしていたら、きっと起こらなかったであろうことが。

ブルーレットをおくだけで、恋人ができました》

 これは実のところ、最も多く寄せられている効果報告である。順調に結ばれれば、二人の結婚は「おくだけ婚」と呼ばれる。

ブルーレットって、おくだけでいいよね」
「うん、いいよね」

 これ以上手っ取り早く意気投合できる会話があるだろうか。

ブルーレットって、おくだけでいいよね」
「そう? 私は念のためこすり洗いしちゃうけど」

 こういうカップルは今すぐに別れたほうが良いのは言うまでもない。つまり『ブルーレットおくだけ』は、「恋の試金石」なのである。

ブルーレットをおくだけで、宝くじが当たりました》

 全国のブルーレッターからは、この手の幸運報告も数多く届けられている。いやむしろブルーレットの洗浄力により、「“うん”を落としてしまっているのでは?」と考えるむきもあろう。

 しかしこれは「“うん”を落としている」のではなく、「“うん”の流れを良くしている」と考えるのが正しい。ブルーレットをおくだけで、おいた人間の周囲にある「運気の流れ」が飛躍的に向上し、良い運を呼び込み悪い運を吐き出すという理想的な「“うん”のサイクル」が作り出されるのである。

 ただしいかに「“うん”のサイクル」を良くしても、何兆円単位の利益を上げるのは不可能とされている。文字通り「億だけ」とのことである。

ブルーレットをおくだけで、戦争がなくなりました》

 いわゆる「ブルーレットの平和利用」というやつである。残念ながらいまだ世界平和が実現したとは言いがたい状況だが、部分的な平和に『ブルーレットおくだけ』が貢献しているのは間違いないと言われている。

 だがこの事実の証明が難しいのは、むしろ「ブルーレットをおかなかったこと」が原因で、様々な戦が起こったと目されているためである。

 近年の研究によれば、桶狭間に張られた今川義元の陣の厠には、ブルーレットがおかれていなかったという。そしてその義元を討った織田信長も、のちに「本能寺の厠にブルーレットをおき忘れる」というただ一点の致命的なミスを犯したために討たれた。

 関ヶ原に布陣した石田三成軍の厠にはブルーレットがおかれていたが、陣を訪れた小早川秀秋の小姓が良かれと思って便器を丁寧にこすり洗いしてしまったため、その主君である秀秋が急遽変節し、豊臣政権の終焉という悲劇を招いた。

 いずれの場合も、ブルーレットをおくだけで(そしてこすり洗いさえしなければ)穏やかな和睦が成立したであろうという見立ては、いまや歴史学者の間では常識となっている。

 やはりブルーレットはそう、おくだけで良いのである。


tmykinoue.hatenablog.com

tmykinoue.hatenablog.com

耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

短篇小説「森羅万象エネミー」

f:id:arsenal4:20171026015954j:plain:w500

 世の中の物体はすべて敵味方に分けられる。ご存知だとは思うが、敵味方というのは人間にのみ適応可能な概念ではない。我々は「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」を分別するように、あらゆる物体をも敵味方に分ける必要がある。さもないと、物に迷いが生じてしまう。

 しかし自治体により客観的な基準の定められているゴミの分別と違い、敵味方の分別には個人差がある。たとえば既婚の中堅サラリーマン・絵根見田友郎の場合。

 絵根見田にとって鉛筆は敵である。なぜならば、削るのが面倒くさいからである。そうなると、自動的にシャーペンは味方ということになる。ボールペンも味方だ。理由は削らないでいいから。

 しかしそんな鉛筆も、受験生時代には絵根見田の味方であった過去を持つ。絵根見田の受験勉強によるストレスは、当時鉛筆の尾っぽを囓ることにより解消されていたのであり、かぶりつきたくなるほどに好きであるということは、それを味方と見なしていることの証左にほかならない。

 「削る」ことの面倒さも、「囓る」ほどの愛情には負ける。さすがにシャーペンの無機質な尾っぽを囓るとなると、文字通り歯が立たない。ゆえに受験生当時は、現在とは敵味方が逆転していたことになる。

 絵根見田にとって洗濯バサミは味方である。彼は強風の日にも臆さず洗濯物を外へ干す勇者であるが、彼の大事なお召し物は何度も洗濯バサミにその命を救われている。まさにバネ仕掛けの救世主。だが洗濯バサミをつけていたにもかかわらず洗濯物を吹き飛ばされたことがある者、および罰ゲームと称して身体各部に洗濯バサミを取り付けられたことのある者にとって、それは紛うかたなき敵と見なされることだろう。

 絵根見田にとって歯ブラシは敵の中の敵である。なぜならば歯ブラシを当てると、歯茎から必ず血が出るからだ。いくらなんでも流血沙汰を頻繁に引き起こす相手が敵でないはずがないではないか。絵根見田は歯磨きをよく忘れる中年男性であり重度の歯槽膿漏である。

 絵根見田にとってエンターキーは味方である。仕事場でエンターキーを必要以上に強く叩くことにより、何もしていなくとも「仕事やってる感」がメキメキ出ると固く信じているからである。

 実際のところ絵根見田のPCには、空白に下から左へと曲がる矢印の記号ばかりが縦に並んだ文書が数多く保存されている。なぜそんなものをわざわざ保存しているのかは不明だが、絵根見田はエンターキー以外のキーを強く叩くつもりは毛頭ない。つまりキーボード上のエンターキー以外のキーは、絵根見田にとってすべて敵だ。触れたくもない奴など敵に決まっている。

 こうして絵根見田という一般男性をモデルに敵味方を分別するプロセスを見てゆくと、敵というのは必ずしもそれ自体が邪悪な存在なのではなく、「それを敵と見なす要因はそう思う人の中にこそある」という見方も成り立つ。あるいは「敵」ではなく、「敵視」という言葉こそがふさわしいのかもしれない。絵根見田が歯医者で適切な治療を受ければ、歯ブラシはいずれ味方に変わるのである。

 そしてザ・ドリフターズは番組の最後に「歯ぁ磨けよ!」と言った。


www.youtube.com

tmykinoue.hatenablog.com

tmykinoue.hatenablog.com

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)

短篇小説「米米商店街」

f:id:arsenal4:20171019221046j:plain:w500

 その商店街にはじめて店を出したのは米屋だった。さすが日本人の主食である。と言いたいところだが、そのはす向かいにオープンした二件目の店もまた、別の経営者が開いた米屋だったことで町内は騒然となった。

「おいおい、年貢はもういいぜ」

 そう言って揶揄していたある若者が、二件目の米屋の隣に魚屋をオープンした。おかずが必要だと思ったからだ。

 しかし魚屋は繁盛しなかった。なぜなら米屋は本当の意味での米屋だったからで、米屋にはまさしく米しか売っていなかったからである。

 といっても、すっかり至れり尽くせりの状況に飼い慣らされた現代人にはなかなか理解できないかもしれない。しかし米しか売っていないということはつまり、生の米がそのままどんと店頭に積まれているということであって、その米は袋さえも着せられていない、いわゆる「裸米(はだかまい)」であった。

 とかく商店街がオープンした当初には、そのように想定を超えた問題が露見するものである。ちなみに農家から米屋まで、収穫した米を袋なしでどのようにして運び入れたのかは、依然として謎に包まれている。

 だがそこで機を見るに敏。一件目の米屋の隣、つまり二件目の米屋の向かいにさっそく「米袋屋」を開いた元カンガルー飼育員の嚢見封蔵は、後に「ビジネスの鬼」と呼ばれた。しかしそんな米袋屋も、当初はさほど繁盛しなかったのである。

 もちろん、二件の米屋の店頭に放置されている裸米を詰めるぶんだけの袋は、即座に捌けた。しかし結局のところ、袋に詰めた米も、それが袋に入っていなかったときと同様にまったく売れなかったのである。

 なぜならばその町の誰ひとりとして、米を炊く道具を持っていなかったからである。

 いや待てよ。そもそもそんな誰も食べかたを知らない物を、わざわざ年貢としてお上が取り立てたり、店を出して販売したりすることなどあるだろうか。価値のない物を税として徴収し、価値のない物を巷に流通させる。そんなことをしても、誰も得しないではないか。そう思われるのも無理はない。

 しかしいま我々が税として徴収され、巷に流通している貨幣紙幣も、誰も食べかたなど知らないし、実はなんの価値もないのかもしれないのである。もしくは調理法と調理器具さえあれば、それは米のようにゆくゆくは美味しく食べられるものなのかもしれない。

 魚屋を開店した若者も、米をまともに調理して食べた経験などないにもかかわらず、米には当然おかずが必要だと思い至ったのだ。当時はまだ「おかず」という言葉すらなかったはずであるのに。それはもはや、知恵でもアイデアでもなく「本能」と言うべき領域かもしれない。

 そして彼のその、ご飯とおかずの蜜月を予言的に言いあてた直感は、米を炊いて食べる習慣を身につけた現代の我々にとっては、至極正しいものであることが証明された。しかし当時は残念ながら、時代が彼に、おかずが米に、いや習慣が直感に追いついていなかったのである。

 ではそんな状況下にあってなぜ、商店街にまず米屋が開かれたのか。それはいまもって謎であるが、実際に米屋がオープンしたことにより、商店街には米袋屋、米櫃屋、ジャー屋、升屋、しゃもじ屋、碗屋、箸屋、ジャー修理屋、などが次々と出店し、町の人々がお米の味を楽しめる状況が徐々に整っていったのである。「卵が先か鶏が先か」という積年の疑問は、どのジャンルにも存在していると言うことだ。

 ところで先に魚屋をオープンして失策したあの若者。彼もすっかり郷に入りては郷に従え、ここに至って商店街の隅っこに「袖口固米取屋」を開店し、いまや店頭の行列が途絶えることはないという。


tmykinoue.hatenablog.com

tmykinoue.hatenablog.com

耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

Copyright © 2008 泣きながら一気に書きました All Rights Reserved.