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泣きながら一気に書きました

妄言コラムと気儘批評と悪戯短篇小説の巣窟

「知らんがな」の効能

どうでもいい言葉は、時に人の心を癒やす。

その空っぽな言葉は、商店街にある靴修理屋の店頭に置かれた小さな黒板に、下手な字でしかし丁寧に書かれていた。以前からその黒板のことは、少し気になっていた。わざわざ店先に置いてあるのだから、やはりそこには店にとって得になる情報、つまり客にとって役に立つ情報が書かれているものだと思い込んでいた。メニューやセールのお知らせなど。

だからこれまでその黒板の文字を真剣に読んだことはなかった。僕はその店の客ではなく、単なる通行人に過ぎなかったから。客にとって有用な情報は、通行人には特に必要がない。だがそこに書かれている言葉を読んで、僕は少しだけ後悔した。これまで黒板の文字を見ずに純粋な通行人を気取っていた自分を。そこに書かれていたのは、虚空に浮かぶような、本当に中身のない言葉だった。

《自転車を買ったそばから新しいのがほしくなりました。》

「知らんがな!」心がそう叫んだ。と同時に、心が妙に軽くなった。

それにしても全方位的に、なんと無関係な言葉だろう。店にとっても、客にとっても、通行人にとっても。もちろんこの店で自転車は売っていないし、その修理も、空気入れさえ受け付けてはいない。そもそも主語が誰だかわからない。書き手のキャラクターをさっぱり把握していないところにぶつけられた、このどうでも良すぎる個人情報。

もしかしたら常連客にとっては名物店長だったりするのかもしれない。しかしだとしたら客に直接語るべき内容であり、見ず知らずの通行人に向けて放つ言葉ではない。「あるある」でありながら、「あるある」の中では比較的弱めであるという絶妙な強度のなさ。「なぜここにその話題を?」と思わずにいられぬ唐突な場違い感。

だが通行人である僕は、この言葉にたしかに癒やされた。もちろんこれが、見ず知らずの通行人の目線を引き寄せるための、あえての戦略であることも、充分にわかっている。それでも。

SNS上に氾濫する多くの「知らんがな」は不快感を伴うが、それはそこに何かしらの「知ってる感」が混じり込んでいるからなのかもしれない。相手をフォローしていたりフレンドだったりすれば、書き手のキャラクターなり背景なりをいくらか知ってしまうのは当然であり、そのいくばくかの「知ってる感」が読み手に微妙な厭らしさを感じさせる。つまり「知らんがな」の純度が低い。

それに比べて、街で偶然目にしたこの1行は、少なくとも単なる通行人である僕にとっては、おそろしく純度の高い「知らんがな」だった。内容だけでなく、詠み人知らず。本当に、心底、知ったこっちゃない。

以前ノンフィクション番組で、自殺志願者の相談を受けているおばさんが、こんなことを言っていた。

「自殺したいと思っている人間を救えるのは、第三者の言葉だけなんです。家族や友達や先生ではなく、第三者と話す必要があるんです」

そういえば占い師というのも、プロの第三者だ。

別に自殺したいとは思わないし、この靴修理店の言葉が自殺者を救うとも思えない。しかし言葉と人の間には、あるいは「適切な距離感」というものが必要なのかもしれない。

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