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短篇小説「店滅」

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 床に絨毯にアスファルトに頭をこすりつけて謝るだけの仕事を終えた夜、そのまま帰宅しても眠れない予感がした私は、気づけば路地裏に迷い込んでいた。あるいは自ら迷いたくて迷っていたのかもしれない。真っすぐ家に帰りたくないがためにまわり道をすることなら、そういえば子供時代にもよくあった。変わらないことを喜ぶべきか、成長しないことを哀しむべきか。

 すでに夜の十時を過ぎていただろうか。路地の両脇に立つ店の看板はどれも真っ暗で、営業時間を過ぎて閉店しているのかとっくに潰れているのかもわからない。

 だがその突き当たりにただひとつ、ちかちかと点滅している正方形の電飾看板が立っていた。点いたり消えたりのリズムが不定期であることから、その点滅は意図されたものではなく、中の電球が寿命を迎えているためであることがわかる。白く光るパネルの表面には、「店」という一文字が孤独に浮かんでいた。

 あるいはその上または左にあったいくつかの文字が経年劣化により消失しているのかもしれないが、そのわりには「店」の文字は中心にありすぎるようにも思われる。私は看板の光に誘われる虫のように、気づけばその店の暖簾をくぐっていた。

「ありがとう」

 足を踏み入れた途端、カウンターの奥から投げかけられたその言葉に、私はうまく返せなかった。こちらが想定していたのはもちろん「いらっしゃい」というお決まりの歓迎の言葉であって、何もしていないのに浴びせられるお礼の言葉ではない。あるいは「お帰りなさいませご主人様」というパターンも昨今はあるようだが、カウンターの向こうにいるのはメイド姿の美少女ではなく、ほどよく頭を禿げさせた初老の男だった。エプロンをしているという一点においては、共通項がないこともないが。

 店内にはほかに客もスタッフも見当たらなかった。当然のように商品の類もなにひとつ置かれてはいない。どうやら男はこの店をひとりで切り盛りしている店主のようで、そうなると私は男をわざわざ無視して隅っこの席に座るというわけにもいかなかった。私は仕方なく、男の正面に位置するカウンター席に腰かけるしかなかった。

「さて、どうしやしょうか?」

 注文を催促された私は、あわてて店内を見まわした。どこにもメニューの書いた紙や黒板などはなく、ただただ薄汚れた壁が広がっている。カウンターの上にも、メニューらしきものは見あたらない。「あの、メニューってありますか?」

「ああ、悪ぃな。もう誰も来ないと思って、片づけちまったよ。なにしろ今日で閉店だからな」

「ええっ、それは残念ですね」

 私は自分の言った言葉に、ひとつも心がこもっていないことに罪悪感を感じていた。こちらとしてはまだ関係がはじまってもいないのに、その終わりを残念がるのはさすがに無理がある。だからこれはビジネスマンとしての経験によりこびりついた、条件反射のようなものだった。

「あの、ここってなんのお店なんですか? いや表の看板に、ただ『店』としか書いてなかったもので」

 閉店という致命的な話題のあとで恐縮だとは思ったが、私は根本的な疑問について尋ねずにはいられなかった。

「ああ、店だよ、店。それ以上でも以下でもない」

 店主があまりにも当たり前のようにそう答えるもので、私は追加の質問が難しくなってしまった。とはいえ、少しくらいは的を絞りたい。

「それってつまり、飲食店ってことですか?」

「それもあるけど、店。ほかにもいろいろあるでしょ、店なら。花とかグローブとか」

 返ってきた答えによって、的は絞られるどころか雲散霧消してしまった。飲食物を扱っているのは間違いないようだが、それ以外に花やグローブも商う店ということか。

 しかも店主は左手のひらを右拳で叩きながらそう言ったので、ここで言う「グローブ」は植物ではなく野球のそれであるに違いない。だとしたら取り扱う商品は、飲食物と植物という小洒落たカフェ的なくくりでもないようだ。そもそも店主の見た目にも店の内装にも、そういった雰囲気は微塵もありはしない。私はいったい何を頼めばいいのか。

「まあ、売れるもんならなんでも売ったよ。ピーマンでも扇子でもTENGAでもランドセルでも。まあ、今日は花もグローブもないけどな。なにしろ閉店だから」

 店主が自慢話をしているのか失敗談を語っているのか、私にはわからなかった。そのとき私のお腹がぐぅと鳴り、おかげで私は夕飯を食べそびれていたことを思い出した。「では何か食べられるものとビールを」

 私は店主に言った。すると店主は驚くべき言葉を口にした。

「そういうのはないね。だってほら、閉店だから」

 私は混乱した。しかし間違いなく店の扉は開いていたのだ。「じゃあ何があるんですか?」

「だから何もないよ。もう冷蔵庫もないし、花瓶もグローブに塗るグリースもない。まあその座ってる椅子なら、持ってってもらってもいいけど」

「でもさっき僕がこの店に入ってきたとき、『どうしやしょうか』って注文を訊きましたよね?」

「ああ、あれは『何もないけど、どうしやしょうか?』って訊いただけでね。まあ、こうなりゃ踊るしかないかね、ハ、ハ!」

 店主は踊る身振り手振りもまったくなしに冗談を言った。

「でも表の看板は点いてたじゃないですか」私は何を問い詰めているのか。

「あれはほら、最後に全部片づけてから、ひとつふぅ~っとため息でもつきながら、雰囲気出して消したいじゃない。ほら俺、ショートケーキのいちご、最後に取っておくタイプだから」

 知らんがなの極みである。「じゃあ最初っから、もうやってないって言ってくださいよ」

「言ったよ」

「言ってないですよ」

「言ったよ、『ありがとう』って」

「それは言いましたし意味がわからなかったけど、やってないとは言ってないですよ」

「だから『ありがとう』ってのはそういう意味なんだよ。基本、お客さんの帰り際に言うやつだから。まあ便利な厄介払いの言葉でね。それとも何かい。あんたは初対面の人間に、お礼を言われる心当たりでもあったっていうのかね?」

 私はすっかり何がなんだかわからなくなってきた。そのあとすぐに、何もかもがどうでも良くなってきた。理屈の糸が複雑に絡まりあった末に、あっさりほどけたのか強固に固まったのか。いずれにしろその理屈は、私になんの得ももたらすことはない。

 それから私は、店主が椅子を片づけて暖簾をはずし、外のコンセントを抜いて看板を消灯するまでの一連の動作を静かに見届けた。そして私のマンションの玄関先には、ただ「店」とだけ書かれた死にかけの看板が、今夜も不規則に点滅している。もしも誰かが何かの店と間違えて部屋に入ってきた暁には、「ありがとう」と言ってやることに決めている。

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