『TVBros.』最新号に、天久聖一の手による電気グルーヴのインタビュー企画が掲載されている。「手による」というのは、読んでいてまさに「手による」という感じがするからで、もちろん単なるインタビューではない。
この組み合わせはもうすっかり恒例になっているが、今回の精度の高さは本当に凄まじい。一行たりとも隙がなく、すべてがもれなく悪ふざけている。「やりきる」とはまさにこういうことだと言わんばかりに。その徹底したスタンスには、笑いとともに感動さえ覚える。なぜか勇気をもらえるのだ。
これを読んだ後では、その他のページがどれも中途半端だと感じる。もちろん他誌に比べればコラム等の平均クオリティは高い雑誌ではあるが、たとえば巻末に爆笑問題の太田が書いている短編小説などは、あからさまに「笑い」から逃げているように見える。太田がヴォネガットを目指しているのはわかる。だけど芸人がこぞって書く小説が、どれもこれも「笑い」を目指していないのは、単なる逃げなのではないか?
僕自身、過去に「笑えない」という理由で文学を避けてきた時期があったから、「小説=いい話」と思い込んでしまう気持ちは理解できる。だがいい文学は、必ず笑えるのである。いとうせいこう×奥泉光の文芸漫談を聴くとよくわかるが、カフカもカミュもドストエフスキーも、ちゃんと読めば笑えるようにできている。それは翻訳が変だからとか、文化的なズレが面白いとかいうレベルではなく、彼ら作家たちが、真面目に悪ふざけをやっているからだ。カフカは自らの小説を、友人の前で自ら吹き出しながら朗読していたという。
つまり文学の本質には「悪ふざけ」という要素が間違いなくあるのであって、それは「笑い」を志す者ならば、必ず根底に持っているはずのスタンスなのではないか。なのになぜ揃いも揃って、いざ小説となると途端に真顔になるのか。いい話ばかりを欲しがる読者にも問題があると思うが、やはり「笑い」は「泣き」よりも格下の扱いなのかと、がっかりしてしまう。
それに対し、今回のインタビュー記事における天久聖一の、「笑い」に忠誠を誓ったそのスタンスは、あまりに潔い。しかもこのインタビュー記事は、はからずも音楽専門誌が行っているインタビュー記事への批評としても機能してしまっている。「中途半端な誘導尋問をするくらいなら、いっそ全部こっち側で作り込んで面白くしちまえよ!」と言うがごとく。
とにかく「面白さ」が最優先されている。最近は特にそういうものが少ないと嘆いている人には、恰好のモチベーションとなり得る「作品」だと思う。