泣きながら一気に書きました

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『去年ルノアールで 完全版』/せきしろ

せきしろ氏は偉大なる傍観者である。

誰もが社会に参加したがり、発言権を主張してあえぐ今の世。ある者は路上でギター片手にありきたりな愛の言葉を叫び、ある者は凄まじい「上から目線」で悩める若者に空虚な人生訓を提供する。

だがみんな忘れていないだろうか?
社会に「参加しない」という選択肢があることを!

ここで書かれているのは、「ルノアール」という「ミニチュア社会」だ。飛びっきりチープな箱庭社会。
だがルノアールは何かに似ている。何に? 本物の社会に。ただちょっと濃い目なだけ。セーターに描かれた猛獣のサイズが、ワンポイントから全面に拡大されただけ。それは何かに似ている。眼鏡越しに見たケント・デリカットの目に似ている。

大半のエッセイが場所の移動を話題に選ぶのに対し、ここではまったく移動はない。あっても、せいぜい支店間の移動と席の移動だけだ。この行動半径の狭さは何かに似ている。「学校」に似ている。クラス替えと席替えしか変化のない学校に。つまりルノアールは学校でもある。

社会にもクラスにもいる最重要人物。それは、その集団に参加せずただその全体をどこかで見つめている傍観者的人物だ。その場の状況すべてを把握できるのは、フィールド上のプレイヤーではなく、遠目に観る傍観者に限られるのだ。それは体育の見学者かもしれないし、監督かもしれない。この際、せきしろ氏はそのどちらでもあると言いたい。

これを読めば、つまらない一日などないし、つまらない人間などありえないということに気づく。要は見方であり対象との距離感次第なのであって、お前の日常がつまらないのは、お前自身がつまらないからなのだと。日々がつまらないと嘆く前に、その曇りきった眼鏡を、眼鏡屋店頭のあの勝手に使っていいかどうか、店員に一声掛けた方がいいのかどうかよくわからない眼鏡洗浄機で洗って出直してこいと。眼鏡を掛けてない人は、まず眼鏡を買えと。
そう、あの拡大縮小自由自在なケント・デリカットモデルを。

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