泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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連載小説「二言武士」/第四言:市中引き回されマシン

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なんといっても武士は体が資本である。さしあたっての得物である「バールのようなもの」の圧倒的魅力により六人の岡っ引きをまんまと丸め込み、自らの器物損壊罪をもみ消すことに成功した覆之介は、家に帰る前に会員制スポーツジムで汗を流すことにした。

近々関ヶ原レベルの大いくさが勃発するという噂が流れている。その手の風説の流布は武士の世の常であり、いちいち真に受けていたらおちおち寝ることも、『こち亀』全200巻を読破することも、デアゴスティーニ『週刊安土城をつくる』全110号をコンプリートして安土城の模型を完成させることもできないが、いざというときのためにせめて体だけは準備しておかなければならない。

覆之介が会員登録している近所の『オールドジム』は、その名の通り古びた木造平屋建ての施設である。とはいえ武士の肉体を鍛え上げることに特化した様々なマシンが完備されており、何もかもが「壊れやすい」ことを除けば申し分のないトレーニング環境といえる。

ただしジムのオーナーも壊れやすいことは重々認識しているため、ユーザーが勢い余ってマシンを壊してしまっても、謝罪も弁償も必要ないのがこのジムの素晴らしいところだ。覆之介も過去に3つほどおじゃんにしているが、お咎めを受けたことは一度もない。数日後に訪れてみると、壊れたマシンのあった場所には、どこでどう言って仕入れたのか、まったく同型でやはり同程度に古びたマシンがしれっと配置されていた。これでこそ『オールドジム』だと言わんばかりのふてぶてしい佇まいで。

覆之介は無数の家紋がプリントされたトレーニングジャージに着替えると、まずは辻斬りマシン「KILL YOU SORRY」で主に広背筋を鍛える。一般市民に見立てたわら人形が激しく回転しながら迫り来るのを、備え付けの棒きれでただひたすらしばくのである。仮想敵がなぜ敵兵ではなく一般市民のファッションであるのか、またそれがどうして狂ったようにスピンしつつ襲い来るのかは、謎に包まれたままだ。

回転式庶民を10分ほどしばき抜いたのち、今度は遠心力を最大限利用した市中引き回されマシン「AROUND THE CITY」に振り回されることで覆之介が気持ちよく肩胛骨まわりの筋肉を伸ばしていると、このジムのオーナーである「過言武士」こと過田減迫が珍しく声をかけてきたのだった。

「覆ちゃん、ちょっと折り入って相談があるんだけど……」

覆之介にとって過田はジムのオーナーである以前に、同郷のパイセン武士であった。過田は戦のない期間には武士も商売をやらねば食えない時代が来ることを見越して、武士との兼業でいち早くジム経営に乗り出したのだった。ただしこの男には、異名のとおり何もかもを言い過ぎてしまう「過言癖」があった。

覆之介は、「AROUND THE CITY」(略称「アラシ」)によるジャイアントスイング状態がようやく収まるのを待って答えた。

「もちろん、俺で良かったらなんでも相談に乗りますよ。あ、でもやっぱ面倒くさいのは無理かも」

事前に「二言」を相手に喰らわせておくことで、あらかじめ自らの逃げ道を確保しておく。「二言武士」たる覆之介の常套手段である。対して、パイセンの「過言武士」こと過田も負けてはいない。

「いま話聞いてくれないとワシ、自殺しちゃうかも。てゆうかさもないとこの国、もとい地球? 込み込みで宇宙? まるまる終わるよなぁ」

なんとスケールの大きな詠嘆であろうか。これはさすがに聞き捨てならないサイズの言葉であった。それがどんなにいきすぎた「過言」であるとしても。

そのとき覆之介を支配している市中引き回されマシンが、再び猛スピードで回りはじめた。


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青い鳥に乗ってクリムゾンキングの宮殿に降り立つケンドーコバヤシを見た(ただし幻覚)

いま僕の中で巻き起こっている3大ブームは、『キング・クリムゾン』『ケンドーコバヤシのテメオコ』『青い鳥』の3つである。最初のひとつのみ、はからずも「ジョン・ウェットンの死」という哀しいニュースと若干リンクしてしまったが、これらは基本的に世の中のムーヴメントとは関係がない。ように見える。

しかし何かにつけ、きっかけというのは現世に転がっているもので。自分の中では、どれもやはり「今」とつながっているような気がしている。正確に言えば「今」ではなく「今を含むすべての時代」、つまりは「普遍性」ということになるのだが。

そもそものきっかけは、ドラマ『嘘の戦争』がはじまったことによる。このドラマの開始に伴って、前作『銭の戦争』の再放送がはじまり、再視聴の身でありながら、その「重さ」に改めてどっぷりと嵌まってしまった。

「重さ」というのはある種の魔性を持っているもので、いったんそれを味わってしまうと通常のものがすべて軽く感じられてしまい、にわかにリアリティを失う。ある種の「重さ中毒」に陥ると言ってもいいかもしれない。

そうなると、同等の「重さ」を持ったものを摂取したくてたまらなくなる。まずは同ジャンルでそういうものを探しはじめるのだが、しかし昨今のドラマに『銭の戦争』のような、良い意味での「重さ」を備えた作品が見当たらないのはあらかじめわかっていた。なぜならば、だからこそ僕は『銭の戦争』を観直して「凄い」と感じたのであるから。

そういう場合は同ジャンル内に留まらず、いったんよそのジャンルへ飛び出したほうが良い、というのは僕の経験則である。ひとつ言うなら、この『銭の戦争』のおかげで僕の中に、ジャンルを越えた「再試聴/再評価ブーム」が立ち上がった。そしてドラマではなく音楽の世界で、目指していた「重さ」に辿り着いた。それがキング・クリムゾンである。

レッド

レッド

クリムゾンに関しては、もちろん以前から少なからず聴いてはいた。しかしそれは、いま考えると「メタルのルーツのひとつとしてのプログレ」という、ある種の文脈をなぞるような貧しい聴きかたであったかもしれない。

だが今回、そんな音楽的文脈とは関係なく、このバンドの根底にある「重さ」とようやく正面から向きあえたという感触がある。少なくとも70年代までのクリムゾンに関しては。

クリムゾンで一番好きな曲は、やっぱり高嶋政宏と同じく「Starless」である。この森羅万象すべてを表現し尽くしたような1曲の登場により、プログレッシヴ・ロックの全盛期は幕を閉じた、という説には同意せざるを得ない。つまりジャンルを包括するほどの決定版であり集大成にふさわしい名曲だが、それを近年は妙に大人数で演奏しているのがまた面白い。

以下の動画を観てもらえばわかるが、前列にドラムが3台並んでいる。それだけでもう画的に面白いし、前半の静かなパートでは残り2名のドラマーが暇そうにしてるのもなんだかいい。やっぱり本当に面白いものというのは、いつも極端な試みの先にある。

そして「極端さ」から生まれる「面白さ」といえば最近よく聴いているのが、『ケンドーコバヤシのテメオコ』というラジオ番組である。残念ながら今やっている番組ではなく、2008年~2010年にTBSラジオの『JUNK ZERO』枠で放送されていた深夜番組である。

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木曜JUNK ZERO ケンドーコバヤシのテメオコ - Wikipedia

当時も毎週聴いていたが、今改めて聴いてみると、とにかくケンコバの特異かつ鋭利な言語感覚にいちいち舌を巻く。彼の言語野の9割は、おそらく漫画とゲームとプロレスで構成されていると思われるが、それら得意ジャンルから習得した限定的な言葉が、適材適所にノーモーションで繰り出される様はまさに圧巻と言うほかない。無駄な重厚感を伴った言葉が、なんの構えもなくサラッと飛び出すその言葉の機動力には感動すら覚える。

文学や哲学に比べると、漫画やゲームの世界は言葉が貧困だと揶揄されることが多々ある。しかし彼の発する言葉を聴いていると、そこには実のところこんなに豊かな言語世界が広がっていたのか、と改めて痛感させられる。出自がどうであれ、選りすぐられた言葉のパンチは、やはり充分に「重い」。

さらには、1時間番組なのにかなり多くのコーナー(毎週5個ぐらい)をやっていたというのも、今回聴き直して改めて気づいた事実で、にもかからわずリスナーの投稿に対するケンコバのリアクションが妙にぶ厚いのもこの番組の特徴だった。

妄想力豊かな投稿ネタの内容を受けて、ケンコバがそこへ即座にサブカル的知識の羽をつけて大空へと羽ばたかせる。その反応スピードと展開力はやはり常人離れしていて、クレイジーなネタが次々と動力を与えられ大空に放たれてゆく。結果、大空に狂気的なネタまみれの暗雲が垂れ込めて。

そもそもこの番組の投稿レベルは間違いなく高いが、ケンコバはなんでもない投稿ネタであっても、必ずどこか遠い場所まで連れて行ってくれる。

そして遠い場所へ連れて行ってくれるといえば、ドラマ『青い鳥』である。ここは今、無理矢理つなげたように見えるかもしれないが、もちろん無理矢理つなげたのである。しかし『青い鳥』もまた、とんでもない「重さ」と想像を絶する「展開力」を持った作品であることに間違いはない。

青い鳥 BOXセット [DVD]

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『青い鳥』は1997年にTBSで放送されたドラマである。放送が終わった瞬間から、僕はこの作品をいつか観直さなければならないと心に決めていた。それくらい衝撃的な作品だった。

しかし改めて観直してみると、これはたしかに衝撃的な作品なのだが、それ以上にドラマとしての圧倒的な完成度の高さに驚く。特に、できる限り偶然を排し、あらゆる要素が必然的に絡みあうよう有機的に組み上げられた脚本の妙は、ちょっと他のドラマでは味わえない孤高のレベルにある。

基本的に静かでゆったりとしたトーンを持つ作品であるにもかかわらず、台詞や展開のいっさいに無駄がなく、むしろソリッドな脚本であると言える。昨今のドラマは、ややもすると展開のスピードに頼りがちで、とにかく右へ左へと息つく間もなく展開させることが物語に緊張感を生むと思っている節があるが、それは芯が弱い場合にのみ有効な下策であると、このドラマは身をもって教えてくれる。

ゆるやかな中にも張り詰めた緊張感が漂い続け、最小限の台詞がドラマをダイナミックに展開させる。行間がおそろしく豊かで、言葉の発せられぬ「間」や「呼吸」すらも、もれなくなんらかの意志を伝えてくる。言葉にならない「想い」のようなものを。

表情など映像のみで伝えるシーンも非常に多いため、パッと見の落ち着いた印象の割には伝わってくる情報量がすこぶる多く、片時も画面から目を離せない。

あらゆるシーンが実のところ「フラグ」だらけで、起こったことは必ず後に某かの影響をもたらすことになる。その徹底した因果応報っぷりこそが、この作品にとんでもない「重さ」をもたらしている。

「クリムゾン」と「ケンコバ」と「青い鳥」、この三者に共通しているのは「重さ」であると言ったが、さらに突き詰めて言えば人間の「業」ということになるのかもしれない。三者はそれぞれの形で、偽りなく人間の「業」に迫っているのだと思う。そしてその佇まいは、時に狂気にも似て。

ちなみにキング・クリムゾンケンコバは『ジョジョ』つながり(ケンコバの愛読書『ジョジョの奇妙な冒険』には「キング・クリムゾン」というスタンドが登場する)であり、赤色を意味する「クリムゾン」と『青い鳥』の「青」は、色彩的にいわば対照的な関係にある。

短篇小説「私が全自動になっても」

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 何もかもが全自動化されたこの世界で、自動でないのはもはや人間の心だけだ。

 もちろんこの文章も全自動で書いている。いや書かせている。むしろ書かれている。その証拠はいずれ表れることになるだろう。

 水道の蛇口が自動水栓になった際にも驚いたものだが、今や自動水栓を洗うのも自動水栓を洗ったブラシを洗うのも、そのブラシを乾かすのも頃あいを見計らって新品と交換するのも古くなったのを燃えるごみの日に出すのも、すべてがすっかり自動である。

 というのもすでにひと昔前の話で、もはや「水は蛇口から出るもの」という発想自体が古いとしか言いようがない。今や水は必要なときに、必要な場所から出てくるものだ。床だろうが壁だろうがベッドだろうがテレビだろうが、ここから出て欲しいと思った場所から理想的な強さで随意に水は出てくる。もちろん全自動なので手入れも調整もいっさい必要ない。

 昔は自動ドアというものがあった。今となっては骨董品として愛でられるだけのオブジェ的代物だが、「人が前に立つと開く」程度のことで「自動」を謳っていたという事実は、今となっては失笑ものである。

 そもそも「ドア」という概念が、もっといえば「入口」や「出口」というイメージがあまりに固定的すぎて、全自動化の進んだ現代に住む人間にはなかなか理解できないところだろう。

 建物など、今やどこからでも出入りできなければ意味はない。前述したようにあらゆる場所から水が出てくる建物ならば、どこからでも人が出入りできるのはむしろごく自然なことだと言えるだろう。

「自由」と「進化」は、常に「柔軟性」と「流動性」の先にある。

 今になって考えてみると、かつて「全自動食器洗い乾燥機」といかにも非効率的な長ったらしい名前で呼ばれていた機械の不便さは、いっそ懐かしくさえある。

 何よりもまず、サイズや間隔に頭を悩ませつつ、カゴの部分に汚れた食器を人の手でいちいち丁重に配置しなければならない時点で、「全自動」からはほど遠いと言わざるを得ない。そうなると洗浄/乾燥後の食器をカゴから取り出して食器棚に並べるのも、もちろん人間の仕事なのである。

 食事といえば人間が作る必要も洗う必要も片づける必要もなく、「ただ口を開けているだけ」で済む現代人からすると、むしろ暇人セレブの高尚な趣味かと思われるほどに信じ難い不合理である。

 もしも当時の全自動食器洗い乾燥機の操作手順を現代人の全自動視覚でスキャンしたならば、おそらくは歌舞伎をはじめとする「伝統的な舞踊の動作」として認識/分類することであろう。

 さて、私はそろそろ書くことに飽きてきた。しかし書くことがなくなっても延々と書き続けられるのが、全自動筆記の強みである。書くことがなくなったら書くことがないと書くことで書くことが生まれるのである。書くことがないと書くことは、書けば書くとき核兵器格納庫架空請求確信犯角刈り家訓横隔膜賀来千香子膝カックン膝カックン膝カッ――


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