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短篇小説「私が全自動になっても」

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 何もかもが全自動化されたこの世界で、自動でないのはもはや人間の心だけだ。

 もちろんこの文章も全自動で書いている。いや書かせている。むしろ書かれている。その証拠はいずれ表れることになるだろう。

 水道の蛇口が自動水栓になった際にも驚いたものだが、今や自動水栓を洗うのも自動水栓を洗ったブラシを洗うのも、そのブラシを乾かすのも頃あいを見計らって新品と交換するのも古くなったのを燃えるごみの日に出すのも、すべてがすっかり自動である。

 というのもすでにひと昔前の話で、もはや「水は蛇口から出るもの」という発想自体が古いとしか言いようがない。今や水は必要なときに、必要な場所から出てくるものだ。床だろうが壁だろうがベッドだろうがテレビだろうが、ここから出て欲しいと思った場所から理想的な強さで随意に水は出てくる。もちろん全自動なので手入れも調整もいっさい必要ない。

 昔は自動ドアというものがあった。今となっては骨董品として愛でられるだけのオブジェ的代物だが、「人が前に立つと開く」程度のことで「自動」を謳っていたという事実は、今となっては失笑ものである。

 そもそも「ドア」という概念が、もっといえば「入口」や「出口」というイメージがあまりに固定的すぎて、全自動化の進んだ現代に住む人間にはなかなか理解できないところだろう。

 建物など、今やどこからでも出入りできなければ意味はない。前述したようにあらゆる場所から水が出てくる建物ならば、どこからでも人が出入りできるのはむしろごく自然なことだと言えるだろう。

「自由」と「進化」は、常に「柔軟性」と「流動性」の先にある。

 今になって考えてみると、かつて「全自動食器洗い乾燥機」といかにも非効率的な長ったらしい名前で呼ばれていた機械の不便さは、いっそ懐かしくさえある。

 何よりもまず、サイズや間隔に頭を悩ませつつ、カゴの部分に汚れた食器を人の手でいちいち丁重に配置しなければならない時点で、「全自動」からはほど遠いと言わざるを得ない。そうなると洗浄/乾燥後の食器をカゴから取り出して食器棚に並べるのも、もちろん人間の仕事なのである。

 食事といえば人間が作る必要も洗う必要も片づける必要もなく、「ただ口を開けているだけ」で済む現代人からすると、むしろ暇人セレブの高尚な趣味かと思われるほどに信じ難い不合理である。

 もしも当時の全自動食器洗い乾燥機の操作手順を現代人の全自動視覚でスキャンしたならば、おそらくは歌舞伎をはじめとする「伝統的な舞踊の動作」として認識/分類することであろう。

 さて、私はそろそろ書くことに飽きてきた。しかし書くことがなくなっても延々と書き続けられるのが、全自動筆記の強みである。書くことがなくなったら書くことがないと書くことで書くことが生まれるのである。書くことがないと書くことは、書けば書くとき核兵器格納庫架空請求確信犯角刈り家訓横隔膜賀来千香子膝カックン膝カックン膝カッ――


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