泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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青い鳥に乗ってクリムゾンキングの宮殿に降り立つケンドーコバヤシを見た(ただし幻覚)

いま僕の中で巻き起こっている3大ブームは、『キング・クリムゾン』『ケンドーコバヤシのテメオコ』『青い鳥』の3つである。最初のひとつのみ、はからずも「ジョン・ウェットンの死」という哀しいニュースと若干リンクしてしまったが、これらは基本的に世の中のムーヴメントとは関係がない。ように見える。

しかし何かにつけ、きっかけというのは現世に転がっているもので。自分の中では、どれもやはり「今」とつながっているような気がしている。正確に言えば「今」ではなく「今を含むすべての時代」、つまりは「普遍性」ということになるのだが。

そもそものきっかけは、ドラマ『嘘の戦争』がはじまったことによる。このドラマの開始に伴って、前作『銭の戦争』の再放送がはじまり、再視聴の身でありながら、その「重さ」に改めてどっぷりと嵌まってしまった。

「重さ」というのはある種の魔性を持っているもので、いったんそれを味わってしまうと通常のものがすべて軽く感じられてしまい、にわかにリアリティを失う。ある種の「重さ中毒」に陥ると言ってもいいかもしれない。

そうなると、同等の「重さ」を持ったものを摂取したくてたまらなくなる。まずは同ジャンルでそういうものを探しはじめるのだが、しかし昨今のドラマに『銭の戦争』のような、良い意味での「重さ」を備えた作品が見当たらないのはあらかじめわかっていた。なぜならば、だからこそ僕は『銭の戦争』を観直して「凄い」と感じたのであるから。

そういう場合は同ジャンル内に留まらず、いったんよそのジャンルへ飛び出したほうが良い、というのは僕の経験則である。ひとつ言うなら、この『銭の戦争』のおかげで僕の中に、ジャンルを越えた「再試聴/再評価ブーム」が立ち上がった。そしてドラマではなく音楽の世界で、目指していた「重さ」に辿り着いた。それがキング・クリムゾンである。

レッド

レッド

クリムゾンに関しては、もちろん以前から少なからず聴いてはいた。しかしそれは、いま考えると「メタルのルーツのひとつとしてのプログレ」という、ある種の文脈をなぞるような貧しい聴きかたであったかもしれない。

だが今回、そんな音楽的文脈とは関係なく、このバンドの根底にある「重さ」とようやく正面から向きあえたという感触がある。少なくとも70年代までのクリムゾンに関しては。

クリムゾンで一番好きな曲は、やっぱり高嶋政宏と同じく「Starless」である。この森羅万象すべてを表現し尽くしたような1曲の登場により、プログレッシヴ・ロックの全盛期は幕を閉じた、という説には同意せざるを得ない。つまりジャンルを包括するほどの決定版であり集大成にふさわしい名曲だが、それを近年は妙に大人数で演奏しているのがまた面白い。

以下の動画を観てもらえばわかるが、前列にドラムが3台並んでいる。それだけでもう画的に面白いし、前半の静かなパートでは残り2名のドラマーが暇そうにしてるのもなんだかいい。やっぱり本当に面白いものというのは、いつも極端な試みの先にある。

そして「極端さ」から生まれる「面白さ」といえば最近よく聴いているのが、『ケンドーコバヤシのテメオコ』というラジオ番組である。残念ながら今やっている番組ではなく、2008年~2010年にTBSラジオの『JUNK ZERO』枠で放送されていた深夜番組である。

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木曜JUNK ZERO ケンドーコバヤシのテメオコ - Wikipedia

当時も毎週聴いていたが、今改めて聴いてみると、とにかくケンコバの特異かつ鋭利な言語感覚にいちいち舌を巻く。彼の言語野の9割は、おそらく漫画とゲームとプロレスで構成されていると思われるが、それら得意ジャンルから習得した限定的な言葉が、適材適所にノーモーションで繰り出される様はまさに圧巻と言うほかない。無駄な重厚感を伴った言葉が、なんの構えもなくサラッと飛び出すその言葉の機動力には感動すら覚える。

文学や哲学に比べると、漫画やゲームの世界は言葉が貧困だと揶揄されることが多々ある。しかし彼の発する言葉を聴いていると、そこには実のところこんなに豊かな言語世界が広がっていたのか、と改めて痛感させられる。出自がどうであれ、選りすぐられた言葉のパンチは、やはり充分に「重い」。

さらには、1時間番組なのにかなり多くのコーナー(毎週5個ぐらい)をやっていたというのも、今回聴き直して改めて気づいた事実で、にもかからわずリスナーの投稿に対するケンコバのリアクションが妙にぶ厚いのもこの番組の特徴だった。

妄想力豊かな投稿ネタの内容を受けて、ケンコバがそこへ即座にサブカル的知識の羽をつけて大空へと羽ばたかせる。その反応スピードと展開力はやはり常人離れしていて、クレイジーなネタが次々と動力を与えられ大空に放たれてゆく。結果、大空に狂気的なネタまみれの暗雲が垂れ込めて。

そもそもこの番組の投稿レベルは間違いなく高いが、ケンコバはなんでもない投稿ネタであっても、必ずどこか遠い場所まで連れて行ってくれる。

そして遠い場所へ連れて行ってくれるといえば、ドラマ『青い鳥』である。ここは今、無理矢理つなげたように見えるかもしれないが、もちろん無理矢理つなげたのである。しかし『青い鳥』もまた、とんでもない「重さ」と想像を絶する「展開力」を持った作品であることに間違いはない。

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『青い鳥』は1997年にTBSで放送されたドラマである。放送が終わった瞬間から、僕はこの作品をいつか観直さなければならないと心に決めていた。それくらい衝撃的な作品だった。

しかし改めて観直してみると、これはたしかに衝撃的な作品なのだが、それ以上にドラマとしての圧倒的な完成度の高さに驚く。特に、できる限り偶然を排し、あらゆる要素が必然的に絡みあうよう有機的に組み上げられた脚本の妙は、ちょっと他のドラマでは味わえない孤高のレベルにある。

基本的に静かでゆったりとしたトーンを持つ作品であるにもかかわらず、台詞や展開のいっさいに無駄がなく、むしろソリッドな脚本であると言える。昨今のドラマは、ややもすると展開のスピードに頼りがちで、とにかく右へ左へと息つく間もなく展開させることが物語に緊張感を生むと思っている節があるが、それは芯が弱い場合にのみ有効な下策であると、このドラマは身をもって教えてくれる。

ゆるやかな中にも張り詰めた緊張感が漂い続け、最小限の台詞がドラマをダイナミックに展開させる。行間がおそろしく豊かで、言葉の発せられぬ「間」や「呼吸」すらも、もれなくなんらかの意志を伝えてくる。言葉にならない「想い」のようなものを。

表情など映像のみで伝えるシーンも非常に多いため、パッと見の落ち着いた印象の割には伝わってくる情報量がすこぶる多く、片時も画面から目を離せない。

あらゆるシーンが実のところ「フラグ」だらけで、起こったことは必ず後に某かの影響をもたらすことになる。その徹底した因果応報っぷりこそが、この作品にとんでもない「重さ」をもたらしている。

「クリムゾン」と「ケンコバ」と「青い鳥」、この三者に共通しているのは「重さ」であると言ったが、さらに突き詰めて言えば人間の「業」ということになるのかもしれない。三者はそれぞれの形で、偽りなく人間の「業」に迫っているのだと思う。そしてその佇まいは、時に狂気にも似て。

ちなみにキング・クリムゾンケンコバは『ジョジョ』つながり(ケンコバの愛読書『ジョジョの奇妙な冒険』には「キング・クリムゾン」というスタンドが登場する)であり、赤色を意味する「クリムゾン」と『青い鳥』の「青」は、色彩的にいわば対照的な関係にある。

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