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短篇小説「割引人間クーポンマン」

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 たった一枚の紙切れが、ひとりの人生をすっかり変えてしまうことは珍しくない。たとえば、戦時下における召集令状。第一志望校からの合格通知。あるいは、勇気を振りしぼって書かれた一通のラブレター。紙切れの持つ意味あいこそ違えど、場合によってはそれが人生を変え得る力を持っていることに変わりはない。

 ここにまたひとり、一枚の紙切れによって人生を大きく変えられた男がいる。男の名を、久本券太郎という。

 久本十八歳の春であった。現役での大学受験に失敗し、その春から浪人生となった久本は、予備校近くのハンバーガーショップを学食と定めた。予備校には学食がなかったからである。

 その日も久本は、昼休みで混みあうハンバーガーショップの行列の只中にあった。久本は計三列のうち、必ず真ん中の列に加わることにしていた。それは久本にとって、いつもと変わりない行動、いわばルーティンである。しかしやがて行列が消化され、自分の会計まで残り三人となったところで、彼は前方のレジで会計中の客が繰り出す、普段は見かけることのない「余計なひと手間」を目撃してしまったのだった。

 そしてその「余計なひと手間」は、久本の前に並ぶ残り二名の会計時にもまったく同様に見受けられた。さらに左右の列へ目をやると、例外なく誰もが同じ行動を取っており、それはむしろ標準的な、常識的な行動であることが証明された。

 久本はたちまち絶望的な気分になった。彼は一瞬にして、少なくともこの店において非常識な人間になってしまった。いや、これまでもずっとそうだったのかもしれなかった。ただその事実に気づかなかったというだけで。

 久本以外の客たちが共通して見せる「余計なひと手間」、それは金銭とは別に、クーポン券を差し出すという行為であった。その出どころは、財布はもちろんのこと、バッグ、ジーンズのポケット、あるいはむき出しのままそれを掴んでいる右手など、千差万別であった。しかしそれが「余計なひと手間」であることに変わりはなく、だからこそその挙動は久本の目についた。

 だが久本は、クーポン券など一枚たりとも持ちあわせてはいなかった。この店のだけでなく、どの店のどんなクーポンも。そして彼は定価でコーラとポテトつきのハンバーガーセットを購入し、食し、店を出た。すると店の外で制服を着た女性店員が、威勢よくクーポン券を配布していた。

 自分が店に入ったときにはいなかったはずの店員が、いつのまにかそこに存在していた。あるいはこの店員はずっとここでこうしてけなげに券を配っていたにもかかわらず、自分はこの人を意図的に視野の外へと排除して、蹴散らすように入店したのかもしれなかった。だとするならば、その時に何らかの呪いをかけられていたとしても不思議ではない。いやきっとそうだろう。

 彼は今さらながらそのクーポン券を受け取ると、そこに「全品30%OFF」の文字を確認した。その横にはさらに、「4/17まで有効」の文字。その日の日付であった。

 この瞬間から、久本は変わった。彼はクーポンの鬼になった。自らの名字の読み仮名も、「ひさもと」から「くーぽん」に変えた。特に役所で手続きしたわけでもなく、自分でそう読むことに決めただけだ。だからなんだというのか。

 久本は、とにかくあらゆるクーポン券を集めに集めた。ハンバーガーショップ、ファミリーレストラン、牛丼屋、ドラッグストア、クリーニング屋、中古ゲーム屋、ガールズバー。クーポン券をもらいに行くために、割引額をはるかに超える交通費をかけることなどざらであった。

 逆にクーポン券なしでは、何も買わなくなった。欲しいものがあっても、それに適合するクーポンを持っていなければ彼は絶対に買わないし、そもそもクーポンというシステムを導入していない店にはいっさい寄りつかなくなった。

 結果、家の中がいらないものでいっぱいになった。ただクーポンを使えるというだけで、別に欲しくないものも見境なく買ってしまうからである。彼にとっての買い物とは、もはや単に「クーポンを使う」ことであり、欲しい商品を手に入れることではなかった。手放すものはクーポン券でなければならないが、それと引き替えに持ち帰るものは正直なんでも良かったのである。

 実際のところ、久本はクーポンの達人であった。彼は店頭でクーポンを使用するだけでなく、路上の喧嘩をチェーン系居酒屋のクーポン券二枚で仲裁したこともあったし、レアクーポンの交換からはじまる恋もした。彼女との初デートで、緊張のあまりハンカチと間違えてポケットから取り出したクーポン券で汗を拭いたのも、のちに甘酸っぱい思い出となった。

 久本はひとり身のまま、四十七歳でこの世を去った。三十代に差しかかったあたりから、健康診断の結果はすでに芳しくなく、クーポンありきの無計画な食生活が祟った結果だと言われている。彼には妻も子もなかったため、その遺産は両親が受け取ることになった。

 彼は二十八歳のときにクーポン券専門の印刷会社を立ち上げ、特にその発色の良さとキリトリ線の「券離れ」の良さが好評を博したお蔭でそれなりの成功を収めていたから、5億円ほどの遺産が両親に遺された。

 やがて両親の元へ、総額5億円分の割引を受けられる大量のクーポン券が届いた。久本の所持していた5億円は、すべてこの5億円相当のクーポン券を手に入れるための経費に消えていた(プライベートジェットやリムジンを頻繁に利用)。色とりどりのクーポン券は、どれも両親が行きそうにない店のものばかりであった。

 ――以上が、久本券太郎の母である容疑者・久本安子の証言に基づく「大手銀行ATM紙幣投入口クーポン券大量連続投入事件」発生に至る経緯であります。


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