泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「帰ってきた失礼くん」

「失礼しま~す!」

 今日も失礼くんが、元気よく知らない店に入りこんでゆく。本日の訪問先はパン屋だ。しかし失礼くんは特にパンを食べたいわけでも、誰かにおつかいを頼まれているわけでもない。ただ純粋に、失礼したい一心でそう言っているのだ。

「ほら僕って、朝はごはん派じゃないですかぁ」

 入口付近にあるトレイとトングを手にした失礼くんは、トングを無理やり箸のように握ってそう言った。店内には他に客も店員もいるが、特に誰に向けて言っているわけでもない。みな知らんぷりを決め込んでいる。もちろん彼にわざわざ朝食の好みを訊いた者など、誰もいなかった。

「だけど最初にこのトレイとトングを手に持ってしまったからには、もう何も買わずには帰れないしなぁ。ロクなパンが見あたらないからって、一度触ってしまったものをそのまま元に戻すわけにもいかないし。まったく、いいシステムを思いついたもんですね!」

 ごはん派を自称するわりには、失礼くん、ロクなパンを探す意志はあるようである。失礼くんがグラビアアイドルのヘソを凝視するように、目の前の棚に並んだあんぱんのヘソを熱心に眺めているところへ、脇から若い女性店員がトレイを滑り込ませてきた。

《ただいま焼きたて!》

 大量のクロワッサンが載ったトレイには、そう書かれた赤い札が立っていた。失礼くんは失礼ながら訊いた。

「焼きたてだからって、美味しいとは限らないんですよね?」

 思いがけぬ質問に、店員は戸惑いながらも答えた。

「いえ、まあ焼きたてじゃないよりはその、やはり焼きたてのほうが……」

「なるほど。じゃあたいして美味しくないパンでも、焼きたてだと少しはマシになるってことですね!」

「え、ええ……まあ、そう言えなくもないというか……」

「あっ、別に、このお店のパンが美味しくないって言ってるわけじゃないですよ!」

「はぁ、それなら良かったです……」

「あくまで一般論ですから! ほら僕、ごはん党ですし!」

 失礼くんが所属先を「派」から「党」へ出世させたところで、店員は首をかしげながら店の奥へ去っていった。

 やがてその「焼きたて」の文字を目ざとく見つけた他の客たちが、クロワッサンの周囲にさりげなく集まってきた。あるいは失礼くんが、続けてこんなことを言ったせいかもしれない。

「つまりこの札が立ってるクロワッサン以外は全部、焼きたてじゃないってことだな!」

 その日の閉店後、店内では緊急の話しあいがおこなわれた。議題はもちろん「焼きたて」とは何かということであった。いやそんなことは皆わかっていたが、わからないのは焼いてからいつまでが「焼きたて」で、いつからが「焼きたてではない」のかということだった。

 そうして「焼きたて」の基準が大幅に見直され、次の朝からそのパン屋には、大半のトレイに「焼きたて」の赤札が常時立ち続けることになった。もちろん、焼く回数を増やしたわけでも、同時に焼く種類を増やしたわけでもない。単に「焼きたて」という言葉の解釈の幅を、思いきって広げてみたというだけのことだ。

 この赤札の力により、パン屋は大いに繁盛した。だがやがて客の中から、この冷めきった硬いパンのどこがいったい焼きたてなのかと、トングでパンをツンツンしながら苦情を申し立てられる日も遠くはないだろう。そしてその客は、きっとまた遠からず訪れてくる失礼くんに違いないのだけれど――それはまた別の失礼。


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