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短篇小説「兄不足」

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 太郎は次郎に知っていることを話した。知っているというのは太郎が知っているという意味で次郎は知らない話だ。太郎だっていまこそ知っているが昨日までは知らなかった話だ。次郎にしてもいまこそは知らないが数分後には知ることになる。あとちょっとすれば晴れてお揃いになるというわけだ。

 太郎と次郎は兄弟ではない。次郎は太郎のことを兄のように慕っているが、太郎は次郎のことを弟のように可愛がっているわけではない。太郎も次郎のことをまた兄のように慕っているのだ。

 こうなってくると、どちらが歳上かなんてのは些細な問題だ。人が相手を兄と慕う心以上に、その相手が兄であるという事実はない。実際のところ、二人とも相手のほうが歳上だと思っている。互いにこれまでその事実に疑いを抱いたことはない。

 片方が相手を兄のように慕っているということは、もう片方は相手を弟のように愛でるべきだ、というのはいかにも古臭い考えだ。もしかすると「べき」ではあるのかもしれないが現実には違う。SとMの関係ですべての人間関係を説明することにこそ無理がある。

 相手を兄のように慕っている太郎が、相手を同じく兄のように慕っている次郎に自分の知っている話をしようとしている。

 太郎は自分がこれからする話を、次郎が知らないことを知っている。次郎は自分がこれから聴かされる話を、自分が知らないことを知らない。だが数分後には、自分がその話をこれまで知らなかったということを知ることになる。

 太郎は次郎に話をするに際して、弟が兄に話すように話したいと思っている。一方で次郎は太郎の話を聴くに際して、弟が兄の話を聴くように聴きたいと思っている。そうなると困ったことに、二人とも弟になってしまう。こうなれば兄のおしつけあいである。

 事態は深刻な「兄不足」と言っていい。上から読んでも下から読んでも、になれそうなのにちょっと惜しいぞ「兄不足」。

 太郎は兄に話をするように、知っている話の冒頭を「あのね」からはじめた。次郎は兄の話を聴くように「なになに?」と返す。

 だが太郎が兄を慕うように話したその話は、次郎が兄を慕うように聴ける話ではまったくなかった。それは次郎が弟を可愛がるように聴かなければならない話であって、太郎を兄のように慕う次郎にとっては、期待はずれもいいところだった。

 おかげで次郎は太郎に対して、初めて厳然と、兄が弟を叱るように怒りはじめたのだった。すると太郎のほうも、初めて兄が弟を軽くあしらうような態度を見せて応戦した。

 二人の舌戦は、やがてつかみあいの喧嘩へと発展し、互いが互いを兄が弟に喰らわすように殴りつける羽目になった。

 しかしこれとて、しょせん若き日の兄弟喧嘩のようなもの。「知っていること」を共有した二人はすぐに仲直り。そしてこの瞬間から、太郎は次郎を弟のように可愛がり、次郎もまた太郎を弟のように可愛がる新たな関係が二人のあいだに生まれたのであった。

 そして二人はまた次に訪れる機会に仲良く喧嘩をして、互いを兄のように慕う関係に戻るはずだ。

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