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短篇小説「不可視な無価値」

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 右に置いてある物をそのまま右に置いておくのと、いったん左に動かしてから再び右に置き直すのとではまったく意味が異なる。それが我が社の理念である。

 これは一度動かしてしまうと同じ右でも位置が微妙に変わってしまうとか、そういうことではない。当初置いてあった場所と、動かした末に戻した場所が寸分違わぬ場所であったとしても、それらはすでに完全な別物なのである。我が社はそういう方針のもとで生産活動をおこなっている。

 ゆえに我が社では転勤が異常に多い。東京本社に勤めている者が、ある日突然大阪への転勤を言い渡され、翌日にはさっそく大阪支社へと出社する。そしてその次の日には、再び東京本社の、いつもの席へと出社することになる。

 このような動きを他社では「出張」と呼ぶらしいが、我が社においてこれは立派な「転勤×2」(東京→大阪、大阪→東京)として処理される。なぜならば行く前の彼と言った後の彼とでは、まったく別の人間になっているといっても過言ではないからだ。

 とはいえこれについてもやはり、大阪へと転勤したそのたった一日の経験により、彼自身の中で劇的な変化があったとか、人間あるいは社会人として一気に成長したという意味ではまったくない。はじめに言ったようにこれもまた、右にあった物をいったん左へ動かし、また右へ戻すとすっかり別物になっている、とみなす我が社の企業理念の表れに過ぎない。

 テーブルの右隅に置いてあった砂糖壺をいったん左端へと動かし、再び右へ戻したら中身が塩になっている。そんなことはもちろんあり得ないのだが、一度左へと動かすプロセスを経た砂糖のほうが、そのまま同じ場所に放置されてある砂糖よりも、着実にキャリアアップしているように見えることは間違いないだろう。もちろん、見た目には何ひとつ変わりはないし、何ができるようになっているというわけでもないのだが。

 我が社では、お茶を出す際にはいったん冷ましてから温め直すことになっているし、商品販売に関しても、東京本社にあった商品をいったん大阪の倉庫へ運んだのちに、再び東京に戻してからお客様の元へ届けるという「ワンクッション配送」が基本となっている。

 また我々のオフィスでは、フロアの右にあった棚をいったん左に移動してから元の位置に戻すことを「模様替え」と呼ぶ。むろんそのプロセスを知らない人から見ればなんの変化も感じられないのだが、そんな「見えないひと手間」こそが商品のクオリティを左右する決定的な隠し味だとする価値観が、我が社には確かにあるのだ。

 しかし先日就任した新社長が我が社の歴史を創業時まで辿ってみたところ、このような「Uターン重視」の理念はそもそもなかったということがこのたび判明した。

 つまりこのような理念すらもひとつのプロセスに過ぎず、我が社は「右に置いてある物をそのまま右に置いておくのと、いったん左に動かしてから右に置き直すのとではまったく意味が同じである」というごく常識的な当初の理念から、いったん「右に置いてある物をそのまま右に置いておくのと、いったん左に動かしてから右に置き直すのとではまったく意味が異なる」というここしばらくの特殊な理念を経て、再び「右に置いてある物をそのまま右に置いておくのと、いったん左に動かしてから右に置き直すのとではまったく意味が同じである」という一般的な理念へと立ち戻ることとなった。

 なおこの理念のドラスティックな差し戻しに関しても、すでに理念変更を完了したいま現在の我が社としては「なんの意味もない」と考えている。

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