泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

短篇小説「連鎖」

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 小雨が降ってきた。まだ降りはじめなので、誰も傘を差していない。日傘の季節でもなかった。

 駅前の商店街を歩いているひとりの紳士が、ブリーフケースから取り出した折りたたみ傘をパッと広げた。するとその脇を通りかかった父親の腕の中にいる赤ん坊が、口を大きく開けてあくびをした。さっきまでぐっすりと眠っていたはずなのに。

 目を開けた赤ん坊は、自分を抱いているのが期待していた母親でないことに気づいて、大声で泣きはじめた。寝る寸前までは、たしかに母親の胸に抱かれて眠っていたはずなのだ。自分という指令官の許可なしに、選手交代などあり得ない。赤ん坊のよく通る泣き声は、そんな憤慨を周囲に感じさせた。

 男子大学生はその泣き声を、商店街の一角にあるレンタルDVD屋の店内で聴いた。赤子の泣き声は、Wi-Fiの電波などよりもよほど店の壁をすり抜けて響いた。感動屋の大学生は泣ける映画を借りるつもりで店内を物色していたが、ふと自分が笑える映画を借りることで赤ん坊も泣き止むのではないかと思い、コメディ映画のDVDを借りて店を出た。

 赤ん坊を泣き止ませるためには、いち早く家に帰ってDVDを観て笑わなければならない。ちょうど雨だって降りはじめている。

 赤子の泣き声は依然として商店街全体に響き渡っているが、その本体がどこにいるのかは、大学生の位置からは確認できない。彼は店の前に止めていた自転車にまたがると、全速力で漕ぎはじめた。

 文字通り、気合いが空まわりしたということなのかもしれない。渾身のひと漕ぎ目で、ガコンと自転車のチェーンが外れてしまったのだった。

 大学生は仕方なくサドルから降りて、手を油まみれにしながらチェーンをつけ直す作業に入った。そこで彼が気づいたのは、目の前にあるチェーンが外れてしまった要因などではなく、どこからともなく響いてくる赤子の泣き声が、いつのまにか止んでいるという事実だった。

 とりあえず良かった。これで急いで家に帰って、たいして面白くもないコメディのDVDを観て無理に笑う必要がなくなった。おかげで彼は、落ち着いてチェーンを取りつける作業に集中することができた。

 数分後、無事にチェーンが元通りにはまり、さあいよいよと大学生が再びサドルにまたがった瞬間のことである。彼は再び、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえていることに気づいたのだった。

 赤子に接する機会など皆無である大学生にも、なぜかその声は、間違いなくさっきのあの赤子の声であることがすぐにわかった。その声が、先ほどよりもさらに大きくなっていることも。やはり彼は急いで家に帰って、コメディを観て笑わなければならない。

 決意を新たにした大学生は、再度全力でペダルを踏み込んだ。すると当たり前のように、またしてもひと漕ぎ目で自転車のチェーンが外れてしまったのだった。これまでにもときどきチェーンが外れることはあったが、二回連続で外れたのはこれが初めてだった。

 いよいよ自転車が本格的に壊れてしまったのかもしれない。まだ買って二年くらいしか経っていないのに。大学生はそんな不平を顔に浮かべつつも路傍にしゃがみ込み、チェーンのはまっていたギアをひと山ひと山入念にチェックしはじめた。雨が少し強くなってきた。

 しかしギアのどこにも欠けている箇所はなく、特に歪みなどもないようだった。そう思ってひと息ついてから、再びチェーンをはめ直そうとしたとき、彼はまたしても、いつのまにやら赤子の泣き声が止んでいることに気づいたのだった。

 いつのまにやらと言ったって、じゃあいったいいつから止んでいたというのか。改めてじっくり考え直してみると、それはチェーンが外れた瞬間からであったような気がしてきた。

 その証拠に、チェーンをいま一度噛ませることに成功すると同時に、赤子の泣き声もまた響きはじめたのだった。その声は、さらに大きくなっている。

 いよいよ我慢がならなくなってきた大学生は、サドルにまたがるともう一度ペダルを強く踏み込んで、今度は意図的にチェーンを外そうとした。チェーンさえ外れてしまえば、赤子は泣き止むはずだ。しかし今度ばかりは踏めども踏めどもチェーンは外れず、自転車はスムーズに進むばかりだった。

 なのに赤ん坊の泣き声は、どういうわけかいっこうに遠ざかることはなく、むしろ近づいてきているようにすら思われた。強くペダルを踏み込めば踏み込むほどに、自転車はスピードを上げ、チェーンとギアの連携は強まっていくようだった。そして彼の耳に届く赤子の泣き声も、ますます大きくなって。

 そうこうしているうちに、降りはじめた雨はまもなく小降りになり、やがて止んだ。先ほど折り畳み傘を広げた紳士が、いつのまにか雨が止んでいることに気づいて、おもむろに傘を閉じた。すると響き渡っていた赤子の声は、商店街からも大学生の耳からも、すっかり消えてなくなったのであった。


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Man Who

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  • 発売日: 2000/05/09
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