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映画評『華麗なるギャツビー』

観たかったのは、主演レオナルド・ディカプリオの哀愁と狂気。予想通り、オリジナル版のロバート・レッドフォードほどの「男としての圧倒的完成度」は望めないが、それでも喜怒哀楽が一瞬にして切り替わるその大胆な感情のスイッチングとセンシティヴな演技からは、孤独な男のプライドと儚さが存分に感じられた。

一方で、名作をわざわざリメイクした本作の意義は、そんなディカプリオの存在感だけでなく、現代の技術を駆使した映像美とも言われているが、2D版で観る限り、たしかに綺麗ではあるがそのぶん人工的で無味乾燥な感触を受けるのも事実。

ちなみに原題は『THE GREAT GATSBY』であり、本来ならばやはり『偉大なるギャツビー』と訳されるべきところだが、映像による派手な効果を狙った本作の作りは、むしろ邦題として採用された『華麗なるギャツビー』のほうにちょうど相応しいと言えるかもしれない。もちろん、邦題から映画が作られたはずはないのだが。

基本的には原題の通り、ギャツビーの存在感にスポットを当てて作るべき作品であり、レッドフォード版はまさしくそこに迷いなくフォーカスした名作だった。しかし本作ではそれだけでなく、好況に浮かれる1920年代のアメリカという華麗な世界観をも、映像の力をもって主役級に押し出したことにより、真の主役であるギャツビーがいくらか割を食っってしまったような印象もある。

これは世界観とキャラクターという「二兎」を追った場合の典型的弊害と言えるが、そんなある種役者にとって不利な状況下でも一瞬の狂気を感じさせたディカプリオの演技には、やはり観る者の目をそらさせない吸引力がある。

その他で気になったのは、やはり話題に上っている音楽と、ライバルの配役。音楽に関しては、時代を完全に無視して現代のヒップホップ等が使われており、そのやたらと低音を強調した人工的なグルーヴは、本作の世界観が目指すべきパーティーの華麗さというよりは、むしろストリートの猥雑さの方ばかりを強調してしまっている。演出上の派手さが欲しいのはわかるが、派手さにも色々な方向性というものがあるわけで、ただ派手にすればいいというものではない。

もう一つ、配役に関しては、上流階級出身で本来ギャツビー以上に上品でなければならないトム・ブキャナン役のジョエル・エドガートンが、いくら着飾ってもマッチョな肉体労働者にしか見えず、どうもそのお高くとまった台詞がそのルックスと合わないと感じられる場面が少なくなかった。出番も多く、ある種物語の鍵を握る役だけに、より繊細な配役をすべきだったろう。

とはいえ、やはり根本にある物語の出来の良さが全体のクオリティを保証しているのは間違いない。数少ない登場人物と限られた地域内で展開されるシンプルなプロットでありながら、主人公を中心に人間関係が徐々に交錯してゆく様は、着実に観る者を魅了してゆく。ある意味では、これだけソリッドなプロットであるからこそ、様々な演出を盛りつけたくなってしまう監督の気持ちも、わからないではない。

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