泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「筋肉との対話」

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 おい、オレの筋肉! やるのかい、やらないのかい、どっちなんだい? やるとしたらいつ、何を、どのようにやるのかい? 今すぐ、バーベルを、鬼のように上げるのかい? 今宵、ブルドーザーを、東京から大阪まで引っ張るのかい? あるいは明朝、ラジオ体操第2を、強めにやるのかい?

 逆にやらないとしたら、代わりに何をやるのかい? どこへ行くのかい? 誰に会うのかい? 疲労回復のために眠るのかい? 薬局へプロテインを買いにいくのかい? 高校時代の恩師に会いにいくのかい? 恩師に会いにいくのだとしたら、やっぱり相手は体育教師かい?レスリング部の顧問かい? 意外と美術の先生かい?
 
 やるにしろやらないにしろ、そのあとは何をするのかい? やっぱりプロテインを買いにいくのかい? 今度はドンキへいくのかい? 恋人にLINEをするのかい? スマホでゲームをするのかい? 空き地にコンクリートブロックを積み上げて、リアルにテトリスを気取るのかい? それともスタバでスイートな物体をトッピングしまくって、女性店員から意外と可愛い人だと思われたいのかい?

 ところで話は変わるが、そもそもなぜそんな流暢な日本語を喋れるようになったのかい? 筋肉にも小学校があるのかい? 国語の授業があるのかい? お母さんの読み聴かせが功を奏したのかい? ひょっとすると、チャック・ウィルソンから学んだのかい?

 そういえば将来キミは、何をやるのかい? ボディビルダーになるのかい? ボディビルダーにガヤを飛ばす人になるのかい? ボディビルダーにオイルを塗る人になるのかい? それとも、それら全部になるのかい?

 おい、オレの筋肉! だからやるのかい、やらないのかい、どっちなんだい? 頼むから答えてくれよ。オレの脳が、すっかり筋肉になっちまう前に。


追伸:親愛なるなかやまきんに君に捧ぐ。


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短篇小説「マジックカッター健」

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 マジックカッター健はどこからでも切れる。彼を切れさせるのに、切り込みなど必要ない。お肌だってツルツルだ。

 マジックカッター健は、端から見れば何ひとつ原因が見当たらないのに切れる。しかし実を言うと、健には本当に切り込みがないのではない。彼の切り込みは外からは見えないというだけで、健が切れるときには必ず、心の中のどこかに切り込みがひっそりと入っている。マジックには、必ずタネがあるというわけだ。

 今日も健は昼休みに、中華料理屋へラーメンを食べにいって切れた。中華屋名物ともいえるベタベタの床が、今日に限っては、どういうわけかスベスベであったからだ。

 もちろんこれは、一般的な基準からすると切れる原因にはなり得ない。むしろ褒められるべき点だろう。だが外見的には無傷でも、心の中に切り込みを持つ男、それがマジックカッター健。この場合、健は自らの努力が報われないことに切れていた。

 つまり健はこの日、昼を中華屋で食すべく、あらかじめ底がベタついてもいいスニーカーをわざわざ履いて出勤していたのである。他の人間からしてみれば、無論そんなことは知ったこっちゃない。

 だがこれは、明らかな裏切り行為だ。健の心の中に入った確実な切り込みだ。それは勝手に想定して勝手に裏切られるという、自傷癖のような切り込みだ。

 健は会計の際、レジの店員に向かって以下の如く切れてみせた。店員からしてみれば、どこにどんな切り込みが存在するのやら、さっぱり見当たらなかったに違いない。まさしくマジックカットというほかない。

「こんなことなら、おニューの革靴を履いてくるんだったよ! 選びに選んで汚れてもいい靴を履いていったときに限って、さっぱり汚れなかった者の気持ちがお前にわかるか? それはいざ全裸になって楽園への扉を開けてみたら、露天風呂が掃除中だった、というくらいのがっかり度合いだってこと!」

 店員は渡すべき釣り銭を握りしめたままその場に立ち尽くし、去りゆく健の背中を見送るしかなかった。結果として健は数百円のお釣りを損したことになるが、そこに健が切れることはない。マジックカッターであるからには、一般人が切れやすいポイント、つまり「外から見える切り込み」から切れるわけにはいかないのだ。あからさまな切り込みが露呈しているようでは、マジックカッターを名乗るに値しない。

 今日の健は、帰りの電車内でも切れに切れた。あえて一本見送ったのちに行列の先頭から車両に乗り込んだ健は、真っ先にシルバーシートの一角へと尻を沈めた。その疾きこと風の如し。

 すると健の目の前に、見た感じ九十歳くらいのお爺が立った。健はここぞとばかり鮮やかに腰を上げ、お爺に席を譲ってみせた。譲りに譲ってみせた、と言ったほうが正確かもしれない。お爺は素直に「ありがとう」と礼を言って腰かけた。健はやや照れた面持ちで、お爺の席から斜め前の位置へ絶妙に距離を取って立つことにした。ここまでは良かった。

 そこから三駅ほど過ぎたであろうか。健の隣、つまりお爺の前に、今度は見たところ八十歳くらいのお婆が乗り込んできた。さらにお婆は両手で杖をつくという二刀流の使い手である。かばうような動きから察するに、どうも腰が悪いらしい。

 ややあってその状況を把握したタイミングで、健は雷神の如く切れた。一見何もないシチュエーションで切れるのが、我らがマジックカッターの真骨頂である。健は席を譲ってやったお爺に向けて、言葉の刃物を突き立てた。

「おいお爺! あんたは見た感じ、おそらく九十代前半といったところだろう。そしていま乗ってきたお婆、あんたはなんとなく、八十代中盤に違いない。そして俺はあんた、そう九十代のお爺のほうへ席を譲った。もちろんそれは、お婆よりも先にお爺が乗ってきたからだ。では訊くがお爺、あんたはこの俺の判断が正しかったと断言できるか?」

 座っているお爺もその前に立っているお婆も、呆気に取られて何も言えず揃って固まるしかない。普段は止まらない震えも、この時ばかりは止まったという。そこで健は自らの内に隠れた切れポイントを明確にするため、新たなるフェーズを提示した。

「普通に考えれば、より年齢の高いほうへ席を譲るのが筋ってもんだろう。しかしお爺、よく見てみろ! このお婆、杖をついているじゃあないか。しかも二刀流と来た。つまりこのお婆は、俺の見たところ明らかに腰痛持ちだ。俺は医者でもなければ腰痛なんて知らない。だがこうなると、問題は途端に難しくなる。九十代で腰がほぐれているお爺と、八十代で腰が凝り固まったお婆、どっちに席を譲るべきかってことだ! 二人の年齢は見たところ、七~八歳差ってとこだろう。もちろん俺には、人の年齢を見極める才覚などないよ。それどころか、お爺だと思って声をかけたらお婆だった、なんてことすらある。しかしだとしたら問題の本質は、杖をつくほどの、二本の杖を必要とする腰痛にそれだけの、七~八歳の年齢差を覆すだけのダメージが認められるかってことだ。そして腰痛などまったくなったこともない俺のフィーリング的に、そのダメージは十歳差をも覆すだけの威力を持っているに違いないと確信している。つまりお爺、てめえはさっさとお婆に席を譲れ!」

 切り込みがないのに切れる魔法の男、それがマジックカッター健。そのマジカルな切れ味は、社会正義か害悪か。とりあえず「こちら側のどこからでも切れます」などと堂々表記しておきながら、案外どこからも切れないマジックカットの小袋があるのはなんとかしてほしいものだ。


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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

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書評『黄泥街』/残雪

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「中国のカフカ」こと残雪による第一長編。作者名を聴いて、まずはイルカの名曲「なごり雪」が頭に流れる。カフカを彷彿とさせる不条理な予感は、冒頭の一文からして十二分に漂っている。

《あの町のはずれには黄泥街という通りがあった。まざまざと覚えている。けれども彼らはみな、そんな通りはないという》

「ある」ようで「ない」場所。「ない」ようで「ある」場所。現実と夢の狭間に立ち現れるディストピア。人だけでなく場所ごと、箱庭的にでっち上げるというフィクションの強度。それを一瞬で感じさせるこの立ち上がりは、まさにカフカと共通する世界観である。

 だが本作の文章は、カフカほど明快ではない。「小理屈をこねる」という会話文の面白さは共通しているが、残雪の場合その関節がことごとくはずれている。

 カフカの遊びは、それがどんなに不条理であっても、あくまでも理屈というルールの中で行われる。ゆえに明らかな屁理屈であっても、そこには常に「一理ある」と思わせるだけの、なんらかの筋がかろうじて通っている。

 逆に言えば、コンスタントに「一理だけある」と思わせるギリギリのラインを突いてみせるのがカフカの凄さであり、お笑いでいえば「あるある」と「ないない」の間をズバッと射抜いてくる痛快さがある。

 それに対し、『黄泥街』における残雪の文体は、ギリギリのところで「一理もない」状態へと理論を脱臼させてくる。しかもこれが、いかにも一理ありそうな口ぶりで言い放たれるから厄介だ。

《「きのうまた百足の夢を見た。黄泥街はまるで穴ぐらだな、ひっきりなしに百足やナメクジが涌いてくる。この雷、どうもなにかを打ち殺しそうだな。雷が鳴ると、おれは膝の力がぬけてしまうんだ」》

 ひとつの事実を述べているようなリズムで、気づけば途中からシームレスに話題が変わっている。筋が通っているようで通っていない。こういう台詞まわしがそこかしこに見られて、理論的に読み進める心が折れそうになる。

 こうなるとカフカを読んでいるときのように、素直に笑うことができない。笑いというのは、それがどんなに型破りなものであったとしても、やはり理屈を前提としている。「型破り」というからには、「型」は破られるためにこそ必要なのであって、破れた部分を見せるには、破れてない部分がある程度原型をキープしていないと破れているように見えない。七割方破れたダメージジーンズは、もはやジーンズではなく単なる布の切れ端だろう。

 だがそもそも、残雪がこういった理論的破綻を意図的にやっているのか、あるいは天然なのか。また翻訳文学の常として、訳がこなれていない、という可能性だってあり得る。

 そんな足元がぐらついた感触のまま、なんとか最後まで読み進めてみた感想は、「竜頭蛇尾」という印象であった。冒頭に提示される魅力的な破滅的世界観が、期待したほど広がりも深まりもせず、ただその中をふわふわと彷徨っているような。結果的に面白いのかと問われれば、確信をもって「面白い」と答えることができない。

 しかしそんな曖昧な印象は、本編終了後に待ち受けている評論「わからないこと 残雪『黄泥街』試論」を読むことによって劇的に変わる。これは本書の翻訳者である近藤直子による40ページに渡る作品論だが、これが本当に素晴らしく、訳者あとがきとは別個にわざわざ収録された価値のある、見事な羅針盤となっている。

 とはいえ、そこには物語の謎に迫る鮮やかな回答が提示されているというわけではない。ここで書かれているのは、むしろ本作の「どこがどうわからないか」ということであり、しかし翻訳者自らがその「わからなさ」を明確に指し示すことによって、読者は自分が読書中に終始感じていた「わからない」という感覚が、間違いでなかったことを知る。

 普通に考えれば、わからない部分をどんなに細かく指摘したところで、結果的にわからないんじゃあ意味がないと思うかもしれない。だがこの論考を読むと、翻訳者がわからない箇所を具体的に例示していくことで、そのわからなさが、訳者の誤訳や作者の天然といった不安定なものではなく、作者がある意図をもって提示し続けた「安定したわからなさ」であることが見えてくる。

 つまり「わからなさ」に対する接し方を、獲得できるのである。それはまるで、言葉の通じない、根本的には「わからない」存在であるところの、動物との接し方がわかってくるように。

 いや別に動物でなくとも、相手が人間であっても、接し方など本質的にはわからないのだった。そう考えてみれば、人間を描く文学が、わからないことを書くのは必然であるように思える。

 最後に、訳者によるこの論考の最後を締めくくる文章を引用する。これを読んで何かしら心が動いた人は、この作品を、もちろん最後の評論まで含めて読む価値がある人だと思う。

《すべての始まりであると同時にすべての終わりでもあり、すべての終わりであると同時にすべての始まりでもある場所。他者と一体であることのおぞましさが快楽に変わり、その快楽がおぞましさに変わる場所。わかろうとする狂気がわからないことへの絶望に変わり、わからないことへの絶望がわかろうとする狂気に変わる場所。語りえぬことを、語りえぬがゆえに語ろうとする「気ちがいのたわごと」が、文学が、そこからはじまるのだとすれば、残雪の文学はすでにはじまっている》


黄泥街 (白水Uブックス)

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