泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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書評『アーセン・ヴェンゲル アーセナルの真実』/ジョン・クロス著 岩崎晋也訳

まるで司馬遼太郎の長篇歴史小説を読破したような、重厚な読後感に包まれている。軽い気持ちで読みはじめたはずが、徐々に読み続けることにある種のしんどさを感じるようになってくる。それはこの本が、アーセン・ヴェンゲルという稀有な指導者が歩んできた人生の重みを、たしかに伝える良書であることの証しである。

本書を読むと、きっと誰もがアーセン・ヴェンゲルという人を好きになる。読み手が僕のようなアーセナル・ファンであればなおさらである。しかしそれは、本書がヴェンゲルという人物を「完璧な監督」として絶賛しているからではない。

この本の素晴らしいところは、ヴェンゲルの人物像や功績が、著者の取材体験や関係者の証言をもとに、あくまで客観的かつ多角的なアプローチによって描かれているところにある。つまりはすべてが是々非々で書かれているということである。

著者はヴェンゲルに直接取材をし、時にはクラブのチャーター機で監督や選手と共に移動するほどチームと距離の近い人物でありながら、ヴェンゲルの魅力だけでなく問題点にも容赦なくメスを入れてゆく。たとえばヴェンゲルが哲学者のように知的で温厚な人格者であると書きながらも、一方では彼が癇癪持ちであることを認めている。

ヴェンゲルが「プレミアリーグ無敗優勝」という偉大な功績を持ちながらも、近年の補強戦略に失敗していることを痛烈に指摘する関係者の証言も容赦なく並べる。さらに、ヴェンゲルはアーセナルの監督を今すぐに辞めるべきであるという証言すらも、平等に取りあげる。

身近な対象に対してこのように是々非々の姿勢で望む著者の姿勢には、大いなる勇気と真実への忠誠心、そして骨太な英国ジャーナリズムの真髄を見る思いがする。日本でこれだけ近しい対象に向けて、是々非々の態度を貫いて物を書くことのできるジャーナリストは、おそらく皆無だろう。

対象となる人物の功績を称え絶賛する「信者」となるか、あるいはもう二度と相手に会わぬことを腹に決めた上で「アンチ」を貫くか。日本の批評家は、たいていそのどちらで行くか、あらかじめスタンスを決めてから書きはじめているように見える。

そのように単純な「信者/アンチ」の二元論は、批評家のみならず、SNS上で繰り広げられるファンの意見表明であっても変わりはない。

悪いところに目をつぶり褒めるだけの「信者」に比べれば、問題点を指摘する「アンチ」のほうが一見勇敢に見えるかもしれないが、どちらも相手の顔色を伺っているという意味では同じことだ。それは真実を追究する是々非々の姿勢からはほど遠いスタンスである。

どんなに理想的な人物であっても、人間である以上、弱点もあれば時には間違いも犯す。それに対して「是」か「非」かのどちらかにあらかじめ態度を決めて接することは、真実から目を背けることと同義である。

そういう意味で、本書のタイトルに掲げられた「アーセナルの真実」という言葉に偽りはない。対象に対し是々非々であるということは、文章の中に著者の誠実な「迷い」がハッキリと見て取れるということでもある。そしてその「迷い」とは、まさにアーセナルファン全員がいま現在抱えているはずのジレンマそのものである。

ヴェンゲルの功績に対する「満足感」と「物足りなさ」。あるいは現状のチームに対する「期待」と「不満」。

たとえば19年連続でチャンピオンズ・リーグの出場権を手に入れていることと、それでいて一度もそこで優勝できていないこと。毎年4位以内には入りながらも、12年間リーグ・タイトルを獲っていないこと。若手選手の育成に熱心である一方、完成した大物選手の獲得には消極的であること。そして魅力的なフットボールの代償として、勝利至上主義を追求する相手には滅法弱いこと――。

そういったアーセナルファンの抱える「迷い」が――いやそれはアーセナルファンのみならず、あらゆるジャンルに当てはまるような普遍的かつ健全な「迷い」であると僕は考えているのだが――著者の文章及びあらゆる人物の証言から、ここでは多角的に炙りだされている。そしてその尽きない「迷い」が、「アーセナルの真実」として読者の目の前に容赦なく突きつけられる。

だがその対象への「迷い」こそが、そこからけっして目を背けずに正面から向かいあう姿勢こそが、「愛」なのであると僕は言い切りたい。

結果として本書には、ヴェンゲルという人物と、彼が築き上げたアーセナルというフットボールチームに対する著者の「愛」が間違いなくあふれている。ただ盲目的に絶賛するだけが「愛」ではない。

冒頭に「長篇歴史小説を読破したような読後感」だと書いたが、それは本書が読後に、ある種の「哀しみ」を伴う余韻を残すということを意味する。この本の最後にも書いてあるように、彼はこの先永遠にアーセナルの監督でいられるわけではない。この先成功するにしろ失敗するにしろ、終わりはきっと、それほど遠くないだろう。

真実を追い求めるジャーナリズムは、そんな目を背けたくなるような寂しすぎる現実をも、容赦なく浮き彫りにする。


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気まぐれ無免許シェフの人名調理法

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この世に変わらないものなどない。それは言語に関しても同様で、昨今の若者言葉に代表されるように、言葉もまた様々に姿を変えることで今日まで生き延びてきた。

そうでなくとも、そもそも動詞には活用形というものがあって、使われる状況によって語尾が頻繁に変化する。しかし一方で変わらない言葉というのもある。その筆頭が固有名詞である。

なるほどそれは、さすが「固」という字を頭に戴いているだけあってなんとも意固地で、周囲がどうなろうと頑なに姿を変えようとしない。

だがそのように凝り固まった価値観では、いつか時代に取り残されてしまう。やはりどんなジャンルにも、柔軟な発想というものが必要不可欠なのである。

というわけで、固有名詞を勝手に活用、というかいっそ気まぐれに調理してみたいと思う。ちなみにここまで述べてきた理屈は、すべてこの文章になんとなくハクをつけるためだけに存在する。そこに主張など何もない。すべては以下に挙げる人名を調理してみたいという一点に端を発している。

スーザン・ボイル

今さらと思われるかもしれない。しかし先日、久々にこの名前を耳にした際に、なんだか「惜しいな」と感じてしまったのである。その時に抱いた感想をより正確に言えば、「この名前には、なんだかもっとふさわしい形があるような気がする」。

よくわからないが、なぜだかもっと「おいしくなる」ような気がするのである。いやもちろん全然食べたいとは思わないが、事実そう感じたのである。そこで僕は、この名前を調理することを決意した。そして気まぐれに調理した結果、スーザン・ボイルは以下のような名前に仕上がった。

「ボイルド・スーザン」

生々しい人名にしっかりと「火を通す」ことにより、一気に「幸せな朝食感」が出たのではないだろうか。やっていることはまるで石川五右衛門の釜ゆで処刑だが、いったん「ボイルド・スーザン」と口にしてみると、もはやオリジナルの「スーザン・ボイル」という名が妙に生臭く感じられるような気がしないでもない。

ちなみにイギリスの映画俳優ベネディクト・カンバーバッチは、すでに調理済みの名前であると思われる。彼はボイルド・スーザンの「エッグ・ブラザー(卵弟)」にあたる。

こうなると板東英二も、そろそろ名前を調理する必要があるのかもしれない。


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終わりなき里山戦争

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このたび日本人力士の稀勢の里が、第72代横綱に昇進した。この事実をもって、長年に渡り日本を二分している「里山戦争」は、一気に「里」派が勢いを盛り返すことになるかもしれない。

里山戦争」とは、言うまでもなく「たけのこの里」派対「きのこの山」派による血で血を洗う戦いである。ちなみに「血で血を洗う」のでは全然洗っていることにならないから、それは単なる「血まみれ」と言ってよい。

戦いの開始当初、そもそも優勢だと思われたのは「山」派のほうであった。なぜならば「里」と「山」を比べた場合、人や物事の名称に使用される頻度は明らかに「山」のほうが多いと思われたからで、これはつまり「山」派のほうが総兵力において圧倒的優位にあることを意味する。

ちなみに漫画ファン及び野球ファンの間では、「里」派と「山」派の力関係は、水島新司の名作野球漫画『ドカベン』によって決定づけられたという説もある。

ご存じの通り、『ドカベン』の主人公の名前は「山田太郎」であり、彼と明訓高校でバッテリーを組むエースの「里中智」は脇役に追いやられている。ここでも「里」に対する「山」の優位性は明らかである。

それに対し「里」派は、アニメ『母をたずねて三千里』を「里」派であると強引に主張するなど、これまでかなり苦しい戦いを強いられてきた。

しかしこの終わりの見えぬ「里山戦争」にも、とある人物の登場により、待望の平穏がもたらされると思われた時期があった。その人物とは、「山里亮太」である。

その名を耳に入れた瞬間、彼こそは対立する「山」と「里」の両者を兼ね備えたハイブリッドな名字を持つ奇跡の救世主であると、多くの民衆が信じ込んだ。

だがその実彼は、圧倒的な「山」派であることがまもなく判明した。彼の所属する漫才コンビ名が、「南海キャンディーズ」であるのが何よりの証拠であった。

「南海」といえば「南海ホークス」であり、「南海ホークス」といえば「ドカベン香川」であり、「ドカベン」といえば先述の通り「山田太郎」である。つまり山里もまた生粋の「山」派だったというわけだ。

ことほどさように「山」派の優勢が日常となりつつある中、「里」派の人間が国技の最高位につくというのは、「里」派にとってまさしく捲土重来の好機である。

ただしその一方で、「里」派にとってはやや不利なニュースも飛び込んできている。

それは「マー君」こと田中将大投手が、WBCへの不参加を表明したというニュースである。彼の奥方の名は「里田まい」。この事実をもって、彼が「里」派の人間であることは疑いのないところだ。

WBCといえば日本国民の注目が集まる大会である。「里」派は「山」派に壊滅的なダメージを与える絶好のチャンスを、みすみす逃すことになるかもしれない。


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