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アーセン・ヴェンゲルの、思考回路を言語化する能力

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我々は、けっして思ったことを完璧に言語化して伝えられるわけではない。そこには必ずいくらかの劣化が伴い、その「言いきれなかった部分」が誤解の種になることも少なくない。

だが欧米のトップアスリートや指導者たちの言葉に接していると、「この人、もの凄く言えているな」と感じることが結構ある。「言いたいことが言いたいようにちゃんと言えている」というのは、実は結構稀有なことで、日本のスポーツ文化に最も欠けている要素であると思っている。

その理由は案外シンプルなところにある。日本人はそもそもスポーツ選手に理屈を求めてこなかった。最近は少しずつ変わってきたようにも思う(たとえばイチロー)が、やはり日本のスポーツ文化の根底にあるのは、いまだに「不言実行」であり、多くを語らぬ者こそが勝者の貫禄を漂わせるという古風な価値観だろう。

日本の体育会系においては、たとえば選手がエラーをした際に求められるのは、「なぜ失敗したのか」という理由の説明ではなく「言い訳しない」という潔い態度のほうである。

それはたしかに、見ていて爽やかな光景ではあるが、人間、「表現を求められぬことは考えもしない」のが常。「言い訳しない」というスタンスは、「失敗の原因を考えない」という思考停止状態を生み出すことになりがちである。

その点、日本代表監督にイビチャ・オシムが就任したときの練習風景は衝撃的であった。彼はパス練習の最中にたびたびそれを中断させ、パスを出した選手に「いまのパスはどういう意図を持って出したのか?」と次々に問い続けたのである。オシムは日本の選手たちが、何も考えずに「なんとなく」パスを出していることを見抜いていたのである。

僕が欧州サッカーを好んで観るのは、そこが「なんとなく」を許さない世界だからである。そこにはもちろん偶然のゴールもあるし、結果的になんとなく勝ってしまう試合もある。しかし基本スタンスとして、そういう偶然頼みの好結果を良しとしない風潮があり、あらゆる事象を言葉をもって説明しようという態度がある。

その「あらゆる現象を言葉で説明しようとする態度」は、純文学に通じるものがあると個人的には思っている。だから僕の中では、純文学を読むことと欧州サッカーを観ることはまったく矛盾しない。それどころか似たような愉しみを発見することが多い。

ひとつひとつの動きは思考回路の反映であり、パスの一本一本にメッセージがある。「必然」は「偶然」よりも遥かに尊い。そしてプレーする側も観る側も、それぞれが異なる文化を持つ多国籍軍だからこそ、言葉をもって通じあおうとする強い意志がある。

そういった「意図を伝える言葉」に触れることができるというのも、僕が欧州サッカーやMotoGPを好んで観る理由のひとつになっている。アーセナルのパスサッカーに惚れ込んだのは、明確な意図を持ったショートパスの連動が、いかにも人間らしい思考回路を描き出しているように感じられたからだ。

そのアーセナルを率いるアーセン・ヴェンゲル監督が、先日行われた欧州チャンピオンズリーグのルドゴレツ戦において、現チームのエースであるメスト・エジルが決めたスーパーゴールに対して発した言葉が、まさにそのような「思考回路の表現」として優れていると感じたので以下の記事より引用したい。

エジルのゴールは、打つか打つかと見せかけてなかなか打たず、最終的にゴールキーパーまで抜き切ってようやく打って入ったという、当代随一のパサーである彼にしては珍しい個人技によるゴールだった。

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記事の中で特に印象的なのは、ヴェンゲルのこの発言である。

「私には一瞬、彼が最適なプレーを選択したように見えなかった。しかし、次の瞬間にゴールが決まり、彼の判断は正しかったと証明された。私は彼に早くチャンスを生かして(シュートを打って)ほしかったのかもしれない。だが、彼には(自分の判断を裏付ける)十分な技術が備わっていた。判断は正しかったよ」

監督が活躍した味方の選手を褒めるというのは、もちろんよくあることだ。しかし問題はその褒めかたである。その褒めかたこそが、指導者としての能力を象徴しているといっても過言ではない。サッカーでは「モチベーション」という言葉が随分と幅を利かせているが、まさに選手の「モチベーション」を上げられるかどうかはその言葉にかかっている。

おそらく普通の監督ならば、最後の一文を言えば充分だと判断するだろう。褒めるのならば、シンプルにその技術を讃えれば良い。わざわざ余計なことを言う必要などない、と。

しかしこのヴェンゲルの言葉には、ありていに考えれば余計な尾ひれが付属している。それはしかも、《私には一瞬、彼が最適なプレーを選択したように見えなかった》《私は彼に早くチャンスを生かして(シュートを打って)ほしかったのかもしれない》という、あろうことかネガティブな響きを持つ言葉である。

通常ならば、このようなネガティブなフレーズは、カットしたほうが安全だと考えるのではないだろうか。下手をすれば、監督としての判断の甘さを問われかねない言葉である。しかしヴェンゲルは、あえてカットせずにこれを言った。そしてこの尾ひれの部分こそが、エジルへの賛辞に圧倒的なリアリティを与え、唯一無二のものにした。

つまりヴェンゲルはこういう言いかたをすることによって、「選手の判断や技術は、時に監督の想定を超える」ということを伝えている。サッカーとは本質的にそのようなものであり、さらにはエジルという選手が、まさにそのレベルにある選手だということを。

カット&ペーストによる「削ぎ落とし」や「まとめ」のスキルばかりがもてはやされる昨今。世の中が失いつつあるのは、まさにこの「思考回路をできる限り劣化なく言語化する能力」、言い換えれば、あえて「削ぎ落とさずに生かす」という選択肢なのではないか。無論、それ以前に思考回路の質が問われるのはいうまでもないが、それを切り落とさないというのもまた勇気ある決断である。


アーセン・ヴェンゲル  ―アーセナルの真実―

アーセン・ヴェンゲル ―アーセナルの真実―

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