泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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ラグビーの起源を捏造する

ラグビー日本代表が歴史的勝利を挙げたというので、時流に乗って普段観ないラグビーなど観てみると、どうやらボールを持っている人が大変な目に遭っている。四方八方から複数の人間に飛びかかられ、しがみつかれ、引きずり倒され、のしかかられるという惨状。これをもし鮮明なテレビカメラではなく、画質の粗い白黒の防犯カメラが斜め上方から捉えていたならば、あるいは何らかの証拠映像だと思い込んでしまっても不思議ではない。

しかしどんなに混沌と映る状況であれ、ある種の秩序というか法則性というものはあるもので、しばらくそんな衝撃映像を眺めていると、ラグビーの場合、どうやら襲われるのは基本的に「ボールを持っている人物」に限られるらしいということが見えてきた。これは大いなる発見である。ボールさえ持たなければ、人は自由になれるのだ。

だがそうなると逆に、そんなに大勢から必死の形相でその存在を狙われているボールとは、いったい何ものなのかという疑問が自然と浮かんでくる。これはそもそもいったい、「本質的に」何をやっているのか? 目の前に映っているラグビーという形式はあくまでも名目上の、象徴的な形式であって、その本質にはまったく別の、ある種本能的な行為が潜んでいるのではないかと。

たとえばその本質のヒントは、「スポーツの起源」といったところにあるのかもしれない。フットボールが「討ち取った敵将の首を蹴る」行為からはじまったとか、スキージャンプが「ノルウェーの処刑法」だった、とかいう類の。いずれも俗説であるようだが、ならばラグビーはと思い検索をかけてみると、「フットボールの試合中にボールを持って駆け出した奴がいた」というなんとも雑な説が。これでは単にクレイジーな奴がひとりいたというだけで、物事の起源としての説得力に著しく欠けていると言わざるを得ない。

その方式でいくとたとえば、フットボールの最中に行われた風変わりな行為が「ボールを持って駆け出す」ではなく「早弁をする」であったなら、「フットボール+早弁=ラグビー」になっていたということになる。いや全然ならないが、そうなればボールへと群がる選手たちからふらふらっと群れから外れて、タッチライン際でひっそりと弁当箱を広げ食べはじめる選手、という興味深い状況が生まれる。

むろん早弁をするには試合が午前中に行われる必要があるし、早弁している選手も敵チームからタックル等の妨害を受けることになるのは言うまでもない。しかし数々の苦難を乗り越えて弁当を食べきった暁には、空の弁当箱を審判員に見せると「ブランチ!(早弁)」という高らかなコールとともに3点という破格の高得点がチームに加算される。フットボールにおける3点差というのはほぼ逆転不可能な点差であり、相手にとって充分に致命傷になり得る。

だが忘れてはならない。敵チームにも、3点を一挙にもぎ取る手段があることを! こうしてラグビーというスポーツはいつの間にか単なる「早食い大会」になり、グラウンドのそこらじゅうにマッチョな人たちが座り込んでお弁当を食べるというなんとも牧歌的な光景が浮かび上がることになるが、早く食べなければいけないのでよく見るとみな必死の形相である。そうなれば得点もシュートではなく「ブランチ」による3得点がメインになり、結果的には現行のラグビー同様、フットボールの試合としては考えられないような2桁あるいは3桁の高得点が叩き出されるようになる(無論「おかわり」も加算される)。

本場英国では早弁を加速する手段として、19世紀初頭に「サンドイッチ」が導入されるが、得点が入りすぎるため翌年から禁止となる。その後日本でも第二次世界大戦後、同様に「おにぎり」を弁当箱に忍ばせる選手が現れはじめるが、これも日本が英国に奇跡的初勝利を収めた試合をもって、欧米列強の圧力により国際的に禁止されることになり現在に至る。

だが日本にはまだ独特の食文化「チョップスティックス」という繊細な武器があり、ナイフ&フォークの欧米人はその得体の知れない自在な「運び」をひそかに警戒しているという。

こうして選手たちは、ボールを持っている人間だけでなく、あちこちで早弁をしている多くの輩にもタックルを仕掛けなければならなくなり、圧力は必然的に分散される。それにより大人数が一人に襲いかかるという、冒頭に挙げたような防犯カメラフレンドリーな惨劇は免れることになるが、今度はお弁当をたくさん作らなきゃいけないお母さんたちが大変ったらありゃしない。

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