泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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『族長の秋』/ガブリエル・ガルシア=マルケス

一文一文に含まれる情報量がすこぶる多く、脳に大きな負荷のかかる文体で描かれる大統領の一代記。ちなみに「情報量」とは役に立つという意味ではまったくない。一文で伝わってくる感覚、感情、イメージ量が圧倒的に多いということで、別に物語進行上必要不可欠な情報が説明的に羅列されているというわけではない。密度と言うべきかもしれない。脳に負荷のかからない文章は、わかりやすいがつまらない。

情報量の多い文体はこの著者の特徴でもあるが、今作はその上で、なんの断りもなくシームレスに主体が交代するというトリッキーな書き方が試みられているため、彼の作品の中でも読み進めるのが一段難しい。読んでいて主語を見失う場面が頻発し、文末のニュアンスでようやくその一帯が誰についての文章であったかが判明する、というようなことがたびたび起こる。時制や物事の順序も入り組んでおり、「整理して伝える」というよりは、あえて「混沌としたまま投げつける」ということを目指しているように見える。そういう意味では、単に未整理というのではなく、あえて整理しないように、混沌をキープし続けられるようにと、細心の注意を払って書かれているという印象がある。

「混沌」とは「リアリティ」の原材料だが、「混沌」を「混沌」のまま受け取ってもらうのはひどく難しい。文章とは、脳内の混沌をいったん言葉という形に整理することで内容を伝えるものだが、その整理の段階において間違いなく損なわれるものがある。言葉を使いながらも、脳内に浮かんだ混沌としたイメージを、可能な限りロスなく伝えるということ。つまりはそんな不可能と思われる領域に踏み込んだ文体であるため、一読して全部を理解しようとすると、簡単に混乱し挫折してしまうかもしれない。

ゆえに、多少わからない場面に遭遇しても、誰が喋っているのか、いつのことを言っているのかよくわからなくても、先に行けばなんとなくわかってくるだろうくらいの感覚で読み進めたほうがいい。手探りながらも先へ進んでいくうちに、読み手の思考回路が書き手のモードに合ってきて、徐々にしっくりくるようになる。

そしてやはり、ガルシア=マルケスの作品において特筆すべきは、その過剰なまでの具体例羅列能力である。言葉の組み合わせがいちいち引っかかりを感じさせるシーンの数々が、特に大仰な構えなくノーモーションで連続的に繰り出され、混沌とした世界観を立ち上げる。長くなるが一連の流れを引用してみる。

《あれですよ、閣下、と言われて、タナグアレナの浜辺で眠っている純金の牛を眺めた。絃が一本しかないバイオリンで死神の誘いの手を払い、代わりに二レアルをいただくという、ラ・グアイラ生まれの千里眼的な盲人を眺めた。トリニダードの八月の灼熱地獄や、バックで走り抜ける自動車を眺めた。絹のワイシャツや、中国の大官を彫った丸ごと一本の象牙をあきなう店の前の通りで、大ぐそを垂れているインド人たちを眺めた。悪夢のようなハイチや、その青いのら犬たちや、夜明けに道端の死骸を集めてまわる牛車などを眺めた。》

その質量ともに圧巻である。実はこの手の描写はさらに前後にも続いている。つまりこれは特別濃厚な箇所ではなく、本作においては終始こんなテンションが続くということだ。

映画ならば一行ごとにワンシーン撮れてしまうような、おそるべき文体の密度である。この小説の中では、あらゆることが瞬間的に起こり、あらゆることが、ものが、人が、瞬時に消える/消される。ほんのわずかなきっかけで天国から地獄へ落ち、あるいは地獄から甦る。

大統領の人生を追う物語の長大さと彼の異様なまでの寿命の長さは、ゆったりとした流れや壮大なスケールを感じさせるというよりも、むしろ次々と立ちあらわれる唐突さのほうを強調する。その抗い難い唐突さこそが、圧倒的なリアリティの要因になっている。

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