泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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愛する人の名を叫ぶことから歌は生まれた(かどうかなんて知らないよぜったい)

キャサリン
アンジェラ! 
エイドリアン!
ウーピー!

思いつく限り外国人女性名を叫んでみる。
このさい誰でもいい。
知らない誰かの名前を叫べばそれでいい。
だが景子や朱美では駄目だ。
カタカナでなくっちゃいけない。
知らなければ知らないほどいい。
何かしら遠いほうがいい。

「誰やねんソング」に名曲は多い。

THE ALFEEの“メリーアン”。
ZIGGYの“グロリア”。
DEREK AND THE DOMINOSの“いとしのレイラ”。

「誰やねん!」
「知らんがな!」

レイラに関しては、クラプトンがジョージ・ハリスンの嫁に捧げた曲で、後に結婚までしているが、ハリ嫁の名はレイラではなく、レイラは架空名。だがそこには一定のリアリティが存在する。

だがそれに対し、メリーアンとグロリアの潔さはどうだ? 
「いとしの」とか「麗しの」とか、そんな余計なメッセージ性のある修飾語なんかつけないぜ!
君の名を呼ぶこの声こそが愛のメッセージなのさ!
と言わんばかりの名前オンリー。
いや“いとしのレイラ”も、原題は単に“Layla”で、いとしこいし師匠はついていないんだけれども。

しかし島国在住の日本人が外国人女性を歌うこの距離感。これはもう、完全に想像上の人物だろう。
高見沢の元カノの名前がメリーアンであるという仮説に、若干のリアリティがあるのは流石(何が?)だが、むしろ高見沢という存在にリアリティがないため、トータルでリアリティは皆無。

とにかくメリーアンにしろグロリアにしろ、リアリティもかけらもないのに大ヒットしたのが凄い。
だが売れているものには、何らかのリアリティは存在しているはずなのだ。
リアリティとは、どうやら実在であるとか、実体験に基づいているとか、身近で馴染み深いとか、そういうこととはまったく無関係なのかもしれない。

MANDO DIAOの新作『GIVE ME FIRE!』に収められている、その名もズバリ“Gloria”という楽曲が素晴らしい。

ここまで潔い歌謡ロックというか、もはや演歌ロックと言ってもいいほどに泣き全開の歌心は、今どき本当に稀少だと思う。
70〜80年代の邦楽には、ロックにしろアイドル歌謡にしろ、この手のエモーショナルなメロディがいくらでも転がっていた。
ちょっとクサすぎて恥ずかしいのは確かなんだけど、この圧倒的叙情性は、恥ずかしげもなく架空の女性名を叫ぶ無闇な勇気と引き替えにしか、手に入らないお宝なのかもしれない。

そういう意味で、昨今の邦楽には、恥をかく勇気が足りない。
もちろんそれは音楽に関してだけあてはまることではなく、妙に起承転結に縛られた映画だったり、上手すぎて笑えない漫才だったり、ミスを恐れてとりあえずのバックパスを連発するサッカーだったり。

何かしら過剰で、思い切りのあるものだけが真に魅力的なのだ。

しかし一方で、多様性を認めないファンやスポンサーの狭量さが、アーティストやエンターテイナーの思い切りを潰しているのも事実。
だからこそ、いま一番必要なのは、単純な「勇気」なのかもしれない。
というような精神論は本来大嫌いなのだが、ここは避けられない部分なのかな、という気分。

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