泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「芝生はフーリッシュ」

 どうやらわたしは公園のベンチで、サングラスを掛けたまま眠り込んでいたらしい。おかげで昼か夜か、起きてすぐにはわからなかった。サングラスを外すと、これまでに見たことのないような、色とりどりの世界が目の前に広がった。色とりどりにもほどがあった。それはつまり自動的に、夜ではないということになる。

 正面にフーリッシュグリーンの芝生が広がり、それを囲い込むように配置されたオールドスクールレッドのベンチの脇には、ミートボールブラウンの土に満たされた花壇が並んでいる。

 花壇のそこここには、アコースティックブルーやオルタナティヴイエローやジューシーオレンジに彩られた花が咲き乱れ、その傘の下をデスパレートブラックの蟻たちが這いずりまわっている。

 やがてコーンフレークアイボリーのトレーナーを着た少年が、わたしのすぐ脇にある花壇へやってきた。少年はためらいなくミートボールブラウンの花壇にズバッと足を踏み入れると、カラフルな花たちには目もくれず、アンビシャスブラックな目玉をくりくりさせながら、その下を逃げまわるデスパレートブラックの蟻たちを一心に追いかけはじめた。

「おいおい、そこに入ったら駄目だよ」オルタナティブイエローの花を容赦なく踏みつぶした瞬間を捉えて、わたしは少年にやさしく忠告した。

「え、なんで?」少年にはやはり、悪気はないのかもしれなかった。「なんでミートボールブラウンに入っちゃ駄目なの?」

 わたしは少年の反応よりも、彼がわたしと同じ色名で花壇の土色を認識していることに驚いた。

「やっぱりそう見えるかい?」わたしがそう訊くと、少年は何を訊かれているのかわからなかったようで、何事もなかったように蟻への攻撃を再開した。

「こらこら、なにやってんの黄介ちゃん」わたしが再び注意しようとしたところへ、リバイバルホワイトのスカートにパンサーピンクのカーディガンを羽織った母親らしき人物が駆け寄って、先を越した。「そんなグロテスクブラウンの土に入ったら、せっかくのエグゼクティブグレーのおズボンが汚れちゃうでしょう」

 代わりに注意してくれたのは良いが、注意するポイントが致命的にずれている。そう思ったわたしが、あくまでも守るべきはおズボンの清潔さではなく花たちの安全のほうなのだと、そのずれをどうにか指摘しようとすると、今度は少年が先を越して母親に反論した。

「グロテスクブラウンじゃないよ、ミートボールブラウンだよ」

 少年は少年で反論のポイントがずれていたが、わたしと色の認識は一致していた。色の認識に関していえば、ずれているのはむしろ母親のほうに違いなかった。

「なに言ってるの黄介ちゃん。うちではミートボールなんて食べさせたことないじゃない」

 わたしはもちろんミートボールを食べたことがあったから、その土の色をミートボールブラウンだと感じた。しかしミートボールを一度も食べたことのない少年が、その土の色を「ミートボールブラウン」と認識するというのは、これはいったいどういうことなのか。

「僕だって、ミートボールなんて見たこともないよ」

 この少年はある種の天才なのか、あるいはわたしの心を読んだのか。

「そんな言葉、意味だってわかんないし、聞いたこともないし」

 そう呟きながらも、蟻を踏みつぶす足の動きは止まらない。むしろ俊敏性を増しているようにも見える。

「この子、どこでそんな言葉憶えたのかしら……」

 母親は、そもそも息子の攻撃性を問題視していたわけではないため、おズボンの汚れさえ諦めてしまえば、すっかりそんなもの思いに耽ることができた。

 少年のステップはリズミカルな調子を生み、彼は花壇を残酷に踏みしだきながら、やがて不可解な歌を口ずさみはじめた。

《しばふ しばふ しばふはフーリッシュ
 ベンチ ベンチ ベンチはオールドスクール
 つーち つーち つーちはミートボール
 
 花はアコースティック 花はオルタナティブ 花はジューシー
 蟻はデスパレートな感じで トレーナーはコーンフレークみたい
 目玉はもちろんアンビシャス!
 
 ママのスカートがリバイバルなら カーディガンはパンサーさ
 マイおズボンはエグゼクティブ だけどお土はグロテスクじゃない

 人生いろいろ いろもいろいろ
 いろにもいろいろあるけれど いろいろ言ったらキリがない》

 わたしはエターナルブラックのサングラスをかけ直すと、少年の歌を子守唄がわりにして、再びベンチで深い眠りについた。


あぶないタッチ病

長年愛用していたiPhone 6が壊れた。かもしれない。かもしれなくないかもしれない。

なんといっても「6」だ。いったい何世代前の機種ということになるのか。もちろん普段から動作は重い。

それが故障による症状なのか、単に性能が時代に置いてけぼりを食っているだけなのか、その判別が難しい。人間の年齢に換算すれば、老人であることは間違いない。むしろ長生きしているほうだと思う。すでにバッテリーの手術だって一度行っている。

タッチパネルが反応しなくなってしまったのである。だが毎回ではないのがややこしい。呼べば三回に二回は振り向くが、一回は無視されるくらいのイメージ。つまり健全な反抗期の息子が返事をするくらいの頻度。

だがそんな子に育てた憶えはない。たしかに購入初日からさっそく便器にドボンするというアクロバティックな失策をやってのけた憶えはあるが、その本体はすぐに丸ごと交換してもらったからまったくの別人だ。

「ではあなたは、反抗期の子供を故障品扱いするのか?」

なんだかそう問われているような気もする。これはあるいは、子供の成長のために不可欠な、一時的なプロセスとしての壊れかたなのかもしれない。

だがこやつは子供ですらなく、もちろん成長期など、あったとしてもとっくに過ぎている。もうすでに老境の域であるのだ。この歳でグレはじめたら「老害」呼ばわりは決定的だろう。

基本的に、だいぶ前から動きは鈍い。アプリを立ち上げる際には必ず「よっこらしょ」と言うのに充分な間隔を空けてから立ち上がる。時には二、三回それを連呼できるくらいに、たっぷりと時間がかかる。妙なタイミングで固まったり、急に顔面蒼白になったりもする。

しかしそれが故障でないことはわかっている。故障ならば直せるかもしれないが、老化ならばそれを受け容れるしかない。

それでもなんとかこれまでやってきた。しかしそんな状態ではスマホとしての用途には耐えず、近年はスマホ機能は別のものに任せ、もっぱら携帯音楽プレーヤーとしてのみ使用している。搭載するアプリも最小限だ。ラジオと音楽が聴ければいい。

だが単なる音楽プレーヤーだとしても、タッチパネルが反応しないのは困る。ちょいちょい指示を無視される。始めたいときに始まらないのはまだしも、停めたいときに停まらないのはわりと焦る。このまま永遠に停まらなかったらどうしようかと思う。

冷静に考えれば音量ボタンは生きているのだから、ボリュームを最小限に絞ればとりあえず静寂という結果は得られるのだが。もちろん電源を落としたっていいが、面倒なことこのうえない。

そういえば画面が無反応になったときには、電源ボタンを押して画面をいったんオフにしてからすぐにもう一度オンにすると、反応が復活することが結構ある。二度三度やっても無反応なこともあるが、五回くらい繰り返せばさすがにタッチパネルも反応するようになる。

それがどのようなルールになっているのかはわからない。なんだかとても人間的な気分の損ねかたであるような気がしてならない。

悩んだ末に、近所のiPhone修理店に相談してみることにした。事前にネットで調べた情報によれば、バッテリーが劣化して膨張することにより、画面が浮いてタッチパネルの反応が悪くなることがままあるという。そういえば前回バッテリーを交換してもらった際にも、バッテリーが膨らんでいたと報告された憶えがあった。

ならば今回もそんなところだろうと予想をつけたうえで店に向かった。バッテリー交換だけで済むのなら、さほど費用はかからないはずだ。

iPhoneの修理を承っているとの黒板は出ているが、それよりも貴金属をなんでもかんでも買い取るという旨の、赤と金に彩られた大看板が目立つ狭い店舗。そんな街のiPhone修理屋ではあったが、ネットでの評判によれば腕は確かであるとのことだった。

「はい、どうしました?」

小屋のような店に入るとすぐにカウンターがあり、ひとりで切り盛りしているらしい店主の男が出てきた。男は妙に日焼けしており、マスクの上からは異様に濃い二重瞼が飛び出しているが、対応は気さくで朗らかだ。

だが、どうしたもこうしたもない。iPhoneの修理に来たに決まっているだろうと言いたくなるが、この店の看板の文字は「貴金属買取」のほうが圧倒的に大きかったのだった。当然そちらのほうが実入りも大きいだろう。

そうなると途端にちまちました修理を頼むのが申し訳なくなり、

「ちょっと、iPhoneのタッチパネルの反応が悪いみたいで……」と小声で言って、僕はそっと鞄からiPhone 6を差し出した。

続けて、ネットで調べた付け焼き刃の知識を試しにぶつけてみることにする。

「もしかしたらバッテリーが膨張して、いやバッテリーもかなり古くなってるもんで、それで画面が圧迫されて、おかしくなってるのかな、と……」

すると男は、iPhoneを目線の高さまで水平に持ち上げて言った。

「ああ、それはないですね。膨張したら、見ればすぐわかるんですよ。画面の脇んとこに、がっつり隙間ができますから。いまんとこ大丈夫ですね」

こちらとしては、早くも万策尽きた形だ。向こうも、バッテリー交換であれば安価で済むが、そうでないとなればまずは画面の交換、それでも駄目なら基盤の修理ということになり、そうなれば別のもっと性能のいい本体を買ったほうがよほど安いと、現実的な提案をしてきた。

正直なところ、自分は数千円で済むバッテリー交換以上の修理などまったく想定していなかったのだということに、ここでようやく気づいた。そうしてこちらがなんとなく諦めムードを漂わせたところ、店主は結論を述べるようなタイミングでぽつりと、耳慣れない言葉を呟いた。

「タッチ病、かもしれないですね」
「タッチ……病……?」

僕の頭に、バイクに跨がってライフルを構えたクロコダイル・ダンディーの鰐顔が浮かんだ。タッチといえば僕らの世代は舘ひろしである。こっちには、彼がかつてファンの女性たちのあいだで「タッチ」と呼ばれていた、なんてうろ憶えの知識すらあるのだ。

もちろんあだち充作品の可能性だってあるが、ここで言う「タッチ」が「タッチパネル」の略だということくらいは流石にわかってきたため、慌てて舘ひろしを脳内から扇子を仰いで追い出した。この場合の扇子はもちろん、『あぶない刑事』でベンガルが仰いでいたあの扇子でなければならない。

店主の説明によれば、「タッチ病」とは「6」や「6s」あたりの古いiPhoneに見られる故障というか製品不良で、まさにタッチパネルが急に反応しなくなるという症状であるらしかった。

厄介なのは、それがいつ発病するかわからないということで、しかも発病したら修理の方法は基盤交換しかなく、基本的には丸ごとの本体交換になるとのことだった。

ある種の初期不良であるにもかかわらず、まさにある種の厄介な病気のように不思議な潜伏期間のような時期があるため、症状が出るのが保証期間内であればまだ良いが、保証が切れてから症状が顕れることがあるからタチが悪いのだと言う。

やはり舘が悪いのか。舘め。

店主によれば、これは業界ではかなり有名な「病気」であるらしかった。完治する道はなく、やはり買い換えを勧めると繰り返した。

だからといってこの店で買い換えるべき本体を売っているわけでもないので、ことに乗じて新品を売りつけようという魂胆ではなく、心からのアドバイスなのだろう。本体をねじれば一時的にタッチが復活する――なんていう昭和の電化製品のような、ブラウン管テレビの角をぶん殴って直していたような前時代的な現象もあるらしいが、それにしたってすぐに元に戻ってしまうから、結局のところ根本的な解決にはならないとのことだった。

こうしてタッチ病に関する説明を聴き終えた僕は、店主に礼を言って修理を諦めることにした。修理をお願いしていない以上、向こうには一銭の得にもならないのに、熱心に教えてくれたことに感謝しつつ。またもし別の症状が起こったらそのときはお願いしますので、と言い残すと、僕はスーパーに寄って家路に着いた。つまり正確には「スー路」からの家路。

そんなことはどうでもいい。

家に帰ってひと息つくと、「やっぱり問題はバッテリーなんじゃないのかなぁ」などと、あんなに親切にアドバイスをくれた店主を疑ってみたりもした。

しかしとりあえずは騙し騙し、頻繁に無視されることに耐えながら寿命まで使っていくしかない。そう覚悟を決めながらも、できる限りのことは試してみようと、元から少ないアプリを極限まで消去したり、音源データを減らしてみたり、本体を右へ左へねじりパンのように、本当にねじれているのかどうかわからないが何度かねじってみたりもした。だが何をやっても、やはり状況は変わらなかった。

ところが。

翌日になってから、タッチ病と認定されたiPhone 6、つまり徳永英明に言わせれば「壊れかけ」なのであろうiPhone 6のタッチパネルに触れてみると、何かが変わっているような気がした。

もちろんこれまでも、反応するときは反応していたし、特にアプリの立ち上がりが速かったというわけでもない。だがなんとなく、反応が健康的であるような気がしたのだ。まるで風邪が治りきった朝の目覚めのように。

そしてそれ以降、タッチパネルが反応しない「タッチ病」は、どういうわけか数日間に渡って一度も起こっていない。消したいくつかのアプリの中に不具合があったのか、あるいは力任せのねじりが効いたのか(もちろん変にねじれば壊れる可能性もあるので、けっしておすすめはしない)。後者だとしたら、僕の天職はiPhone整体師なのかもしれない。

機械はときに、人間的な壊れかたをする。車を買い換えることを決断した途端、寂しがった旧車が故障するなんてのはよく聞く話だ。ということは逆に、人間的な直りかたをしても不思議ではない。いや充分に不思議だが、不思議なことがあっても不思議ではないという意味で。

そして『あぶない刑事』を久々に観たくなるという、あぶない副作用だけが僕の中に残った。


ディスクレビュー『THE ENDGAME』/TREAT

どんなに方向性の近い作品にも明確な違いがあり、どんなに安定したアーティストにも少なからず質的な波はある。全曲が名曲なんてことはあり得ないし、全作品が名盤であるアーティストもまずいない。だがそんなことをあえて書いてみたくなるのは、このTREATというバンドが再結成以降、驚くべき楽曲のクオリティと安定感を維持しているからだ。

だがその高次元なレベルにおいても、作品ごと当然いくらかの方向性の違いはあり、また出来不出来の波も少なからずあるものだ。その細かな違いを味わえるのは、リスナーとして非常に贅沢なことなのではないのかと思う。

なので単純に「最新作が最高傑作」と雑に持ち上げるだけのアバウトなレビューを書くつもりはない。そういった「最新作補正」に囚われたレビューが、世の中にはあまりにも蔓延している。しかし一方でまた、これが良質な作品であることに間違いはない。特にメロディを重要視する向きにとっては、おそらく年間ベスト10に入ってくるレベルにあるだろう。

個人的に、再結成後の彼らのバイオリズムは、一作ごとに傑作と佳作を繰り返しているように感じていた。『COUP DE GRACE』(名作)~『GHOST OF GRACELAND』(佳作)~『TUNGUSKA』(名作)という風に。となるとその次に来る本作は佳作ということになるのだが、そう簡単に言い切るわけにもいかない。

同じ名作でも、『COUP DE GRACE』と『TUNGUSKA』はタイプの異なる名作であった。前者はパンチのあるいくつかの楽曲が柱となって全体を支える、個が際立った傑作であり、後者は飛び抜けた楽曲はないが、全体が統一した「面」として胸に迫ってくる総体的傑作であった。ゆえに『COUP DE GRACE』は一聴してその素晴らしさが伝わってきたが、『TUNGUSKA』は当初の印象はそうでもなく、聴き込むほどにその魅力が増してくるタイプの作品だった。

では翻って本作『THE ENDGAME』はどうか。とりあえず直近の前作『TUNGUSKA』と比較してみよう。

まず肝心のメロディに関しては、前作に比べるとややポップで甘く、いくらかとっつきやすくなっている。だがこれは、聴き込んでいくにつれてやや飽きが来やすいというリスクも孕んでいる。しかしいずれにしろ、上質であることは間違いない。

むしろより違いが明確なのは、主旋律というよりはアレンジにまつわる領域のほうかもしれない。それはより感覚的な表現が許されるならば、全体の雰囲気と言い換えてもいい。前作の全体に漂っていた荘厳さと重厚さが今作にはあまり感じられないことに、若干の物足りなさを感じる。

言うなれば前作とは全体の基調となるトーンが違う。それは前作に比べてヘヴィなキター・リフが少ないせいもあるが、歌メロ自体がやや明るくなっているという違いもあるだろう。それでも充分に切なくはあるし、それは元来彼らが持っているポップさであるのだが、いま考えてみると、むしろ前作が彼らにしては例外的に、かなり暗めの色調で統一されたアルバムであったということになるのかもしれない。

個人的にはアレンジよりも主旋律の質を重視する聴き手だと自覚しているので、まさか自分がそこまでアレンジを重要視しているとは思わなかった。しかし名盤レベルの作品は、時として聴き手の価値観をも転倒させる。そして新たな扉を開かせる。

アルバム全体のトーンを決めるうえで、1曲目というのはやはり重要な役割を果たすが、本作の冒頭を飾る①「Freudian Slip」のラストに放たれる「Uah」というゲップのような咆吼を聴いて、僕はちょっと嫌な予感がした。もちろん彼らもハード・ロック・バンドではあるのだが、そういうかつてのLAメタル的なノリは、彼らの楽曲が持つ繊細な魅力を損ねてしまっているように思う。

そういう点も含めて、今作は作り込まれた前作よりも、よりライヴ感のある仕上がりをはなから目指していたようにも見受けられる。そのわりにはバックの楽器陣の演奏がやや地味で、ヴォーカルが少し浮いているように感じられるのが気がかりではあるのだが。

結果として、メロディの雄大さ、奥行き、全体のスケール感に関しては、前作に軍配を上げる。ある種、前作のほうがヘヴィ・メタル的であると言えるかもしれない。

だがそれでも個々の楽曲に宿るメロディは素晴らしく、記憶に残る美旋律は多い。前作の深味にどっぷり嵌まったがゆえに、今回はとても贅沢なことを書き連ねるレビューとなったが、本作もまたメロディ派必聴の作品であることは間違いない。このレベルまで来ると、正直好みの問題になってくるわけで、ここまで細かく作品ごとの違いを愉しませてくれることに、むしろ感謝すべきなのかもしれない。

いずれにしろ今作を気に入った人がこのレビューを読んで、「あれ、前作ってそんなに良かったっけ?」と思い直して聴き返し、前作『TUNGUSKA』の魅力を改めて再発見してくれるといいな――という副次的な狙いというのも、あったりなかったりあったりなかったり(どっちや)。

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ジ・エンドゲーム

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