泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「オール回転寿司」

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 私は先日、いま話題の「オール回転寿司」へ行った。まさかあんなに回るとは。

 回る回るとは聞いていた。しかしその回転の度合いは、私の想像をはるかに超越したものであった。こんな店が繁盛しているということは、人間はとにかく回ることを愛する生き物であるということだろう。さすが、回転する星の上で生活することを選んだだけのことはある。どうりで竜巻のようなジェットコースターに長蛇の列ができるわけだ。

 夕飯時を迎えた「オール回転寿司」の店頭にも行列ができていた。入口の脇で理髪店前に立つべき三色縞のサインポールが回っているのは、それによって列に並ぶ客の回転スピードをコントロールしているからだ。

「行列の回転」といっても、それはいわゆる列が進むことにより店内の客が入れ替わるという意味における回転ではない。列に並ぶ客は入店を待っているあいだ、その場でサインポールにならって終始右回りに回り続けなければならないのである。なにしろここは何から何まですべてが回ることを求められる「オール回転寿司」であるからだ。

 それゆえ回りながら並んでいる最中に、気分が悪くなって立ち去る客も少なくない。だがその一方で、「オール回転寿司」に家族で頻繁に通うことによって回転の本質的な楽しさを知ったキッズたちが、各地のフィギュアスケート教室に殺到しているという。

 私は行列の中で二十分ほど回ったのちに、ほうほうのていで入店を許された。しかしいくら人間が本能的に回転を好むとはいえ、なぜそこまでして回るのかという疑問も浮かんでくるが、その答えは意外と明確であったりする。つまりそこには回転による割引システムが用意されているのである。人間は回転も好きだが、割引はもっと好きである可能性がある。

 店頭の行列に並んでいる最中に判定員による採点が行われ、各人の回転レベルによって入店時に割引率の異なるクーポンが配布される。採点基準は公表されていないが、基本的にはお手本となるサインポールにスピードもスタイルも近ければ近いほど点が高くなる(つまり割引率も高くなる)と言われている。いくら自信があるからといって回転が速すぎても減点の対象になるので、そこは気をつけなければならない。

 初心者である私は、当然のように最低ランクの一割引クーポンしか貰えなかった。入店時に回りながら前後の客の様子を見ていたところ、中には七割引のクーポンを付与された猛者もいて、派手に祝福の鐘を鳴らされていた。

 店内へ足を踏み入れると、寿司が店内を楕円状に回っているがもちろん客も回っている。しかし寿司と客は同じ方向に同じスピードで回っているから、目の前にある寿司はずっと同じものであってこれでは回る意味がないという説もある。だが店側の説明によれば、これには寿司と併走することにより、マラソン大会をともに走った親友さらには戦友のような親密さを、ぜひとも人と寿司のあいだにも築いてほしいという願いが込められているという。

 私はカウンター前の席へと案内されたが、椅子はカウンターに沿って回り続けているため、スキー場でリフトに乗るようにタイミングを合わせて乗り込まなければならない。なんとか呼吸を合わせてえいやっと背のない丸椅子に尻を載せると、当然のようにその椅子もぐるぐると右回りに回転していて私も回る。つまり椅子自体の回転は惑星で言うところの自転であり、上に載せた客を回しながらカウンターの周囲を楕円形に公転もしているというわけだ。

 ここまで来ればもう言わなくてもわかると思うが、カウンター上に設置されたベルトコンベアーの上の寿司も回転している。

 その回転にもやはりそれぞれの段階があって、まずは寿司を載せた皿がベルトの上で回転する。さらにはその回る皿の上でシャリが回転し、シャリの上でネタがもういっちょ回転するという多層的な回転構造になっている。

 そのうえで目を凝らしてさらによく見ると、シャリのひと粒ひと粒までもがそれぞれに回転しているのがわかるが、こればかりはどうやって実現しているのか素人目にはわからない。シャリのひと粒ごとにそれぞれ回転をかけながらも、全体として崩れぬように握る職人の技術には感服せざるを得ない。

 しかしだからこそここの寿司は口の中でよく動くのであり、その躍り食い感覚が癖になると言う客は多い。さらには近々、あらゆる段階において縦回転、ゆくゆくは斜め回転をも導入する予定だというのだから、その意欲的な開発姿勢に他業種からも熱視線が注がれるのは当然である。熱々の汁で満たされたお椀ものを縦に転がりながら食するなど、もはやスリルしかないではないか。

 私はビールによる酔いと回転による酔いのちゃんぽんでぐでんぐでんになりながらも、何層にも回る寿司を存分に堪能した。そして会計のため回りながらレジへと向かい、財布から札と小銭を取り出して店員が差し出したトレーの上に置く。その際にも、私はトレーの上でいくつかの硬貨をコマの要領でくるくると回すことを忘れなかった。すると、

「いやちゃんと置いてくださいよ! 数えられないじゃないですか!」

 笑顔の店員が血相を変えて私を叱りつけた。こんなにもあらゆる物体が回転している店内なのだから、小銭くらい回したっていいじゃないか。

ディスクレビュー『HELLOWEEN』/HELLOWEEN

歴代メンバー七人の集合体による、ある意味「完全体HELLOWEEN」が満を持して発表した待望の新作。

だがこの作品の評価はひと筋縄ではいかない。近作よりは間違いなく良いが、だからといってかつての名作群に匹敵するわけでもない。

予想以上ではあるが期待以上ではなく、完成度は高いがひらめきを感じる瞬間は少ない。足し算のあとは見えるが掛け算とまではいかず、むしろ各人の互いへの配慮が引き算になってしまっているようにも写る。

いわば結果として全体の平均点が高くなるように大人のまとめ方をしたような、いわば民主主義の可能性と限界を同時に感じさせる作品である。アルバムとしては、サシャ加入直後の『RABBIT DON'T COME EASY』あたりに近い感触があるが、キラー・チューンの質ではやや負けているかもしれない。

どの楽曲も歌メロは及第点をクリアしているが、かといって過去の名曲群との勝負となれば分が悪い。といってもこれはほぼ「伝説との勝負」となってしまうため当然のことではあるのだが、健闘している数曲もその伝説の根拠となる『守護神伝』時代の初期楽曲寄りの作風ではなく、どちらかと言えばアンディ加入後に手に入れた武器が光る楽曲群である。

その代表が③「Best Time」で、個人的にはこれが本作のベスト・チューン。アンディがこのバンドに持ち込んだデヴィッド・ボウイからの影響が、グラム・ロック風の耽美的美旋律となって際立っている。

全体を通して感じるのは、メロディの強度の問題もあるがアレンジ面における単調さで、どうも楽器陣の演奏が楽曲の要求を超えてこない印象が残る。

これが大所帯の民主主義による忖度が働いて皆が遠慮がちになっているためなのか、単なるアイデア不足に過ぎないのかはわからない。

いずれにしろ本来はバンドを引っ張るべき圧倒的才能の持ち主であるマイケル・ヴァイカートが、他に船頭が現れると意外と身を引きがちであるという悪い癖が今回も出ているように見える。やはりこのバンドは、彼のモチベーション次第なのだという事実に改めて気づかされる。

そう考えると、本作の主たる問題はやはり「ヴァイキー成分」の不足という一点に尽きるのかもしれない。それは彼が多くの楽曲を手掛けているかどうかというだけの問題ではなく、アレンジ面も含めて、彼の中にアイデアを提供するモチベーションが健在で、かつバンド側にそれを受け容れる体制が整っているのかどうかという話である。

そういう意味で、このバンドに本来ふさわしいのは今回のような民主主義ではなく、結局のところヴァイキーによる独裁体制なのだろうと思う。

といってもこれまでの経緯を考えると、彼はそこまで全面的な責任は負いたがらないタイプのようなので、それは叶わぬ理想郷に過ぎないのかもしれない。おかげで我々ファンは、なんでもっとやれるのにやらないのかと、毎度歯痒い思いをさせられたりもするのだけれど。しかし才能豊かな人というのは往々にしてそんな飄々とした自由人であったりもするから、こればかりは仕方がない。

期待が大きすぎたといえばたしかにその通り。アルバム全体の完成度はむしろ高いと言っていいレベルにあるため、「船頭多くして船山に上る」とまではいかないが、バンド内民主主義のメリットとデメリットをともに感じさせる、これはひとつの象徴的な作品であるかもしれない。


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短篇小説「兄不足」

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 太郎は次郎に知っていることを話した。知っているというのは太郎が知っているという意味で次郎は知らない話だ。太郎だっていまこそ知っているが昨日までは知らなかった話だ。次郎にしてもいまこそは知らないが数分後には知ることになる。あとちょっとすれば晴れてお揃いになるというわけだ。

 太郎と次郎は兄弟ではない。次郎は太郎のことを兄のように慕っているが、太郎は次郎のことを弟のように可愛がっているわけではない。太郎も次郎のことをまた兄のように慕っているのだ。

 こうなってくると、どちらが歳上かなんてのは些細な問題だ。人が相手を兄と慕う心以上に、その相手が兄であるという事実はない。実際のところ、二人とも相手のほうが歳上だと思っている。互いにこれまでその事実に疑いを抱いたことはない。

 片方が相手を兄のように慕っているということは、もう片方は相手を弟のように愛でるべきだ、というのはいかにも古臭い考えだ。もしかすると「べき」ではあるのかもしれないが現実には違う。SとMの関係ですべての人間関係を説明することにこそ無理がある。

 相手を兄のように慕っている太郎が、相手を同じく兄のように慕っている次郎に自分の知っている話をしようとしている。

 太郎は自分がこれからする話を、次郎が知らないことを知っている。次郎は自分がこれから聴かされる話を、自分が知らないことを知らない。だが数分後には、自分がその話をこれまで知らなかったということを知ることになる。

 太郎は次郎に話をするに際して、弟が兄に話すように話したいと思っている。一方で次郎は太郎の話を聴くに際して、弟が兄の話を聴くように聴きたいと思っている。そうなると困ったことに、二人とも弟になってしまう。こうなれば兄のおしつけあいである。

 事態は深刻な「兄不足」と言っていい。上から読んでも下から読んでも、になれそうなのにちょっと惜しいぞ「兄不足」。

 太郎は兄に話をするように、知っている話の冒頭を「あのね」からはじめた。次郎は兄の話を聴くように「なになに?」と返す。

 だが太郎が兄を慕うように話したその話は、次郎が兄を慕うように聴ける話ではまったくなかった。それは次郎が弟を可愛がるように聴かなければならない話であって、太郎を兄のように慕う次郎にとっては、期待はずれもいいところだった。

 おかげで次郎は太郎に対して、初めて厳然と、兄が弟を叱るように怒りはじめたのだった。すると太郎のほうも、初めて兄が弟を軽くあしらうような態度を見せて応戦した。

 二人の舌戦は、やがてつかみあいの喧嘩へと発展し、互いが互いを兄が弟に喰らわすように殴りつける羽目になった。

 しかしこれとて、しょせん若き日の兄弟喧嘩のようなもの。「知っていること」を共有した二人はすぐに仲直り。そしてこの瞬間から、太郎は次郎を弟のように可愛がり、次郎もまた太郎を弟のように可愛がる新たな関係が二人のあいだに生まれたのであった。

 そして二人はまた次に訪れる機会に仲良く喧嘩をして、互いを兄のように慕う関係に戻るはずだ。

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