泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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噛むガム Is Coming!

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数年に一度、ガムブームが来る。「来る」といっても自分の中に来るというだけの話である。ちなみに「噛む」という日本語動詞と「ガム」という英単語の親和性はどういうわけか。そして噛むべきガムのブームがCOME(来る)。

そういえば世の中的に、いつガムブームが来ていつ去っているのかをまったく知らない。スーパーやコンビニの店頭を見る限り、ずっと来ているようでも、ずっと来ていないようでもある。それを「定着」と呼ぶのかもしれないが、僕の中では定着していないので数年に一度粘っこいヤツが突如来る。あるいは十数年に一度くらいかもしれない。周期的には彗星の領域である。

ガムといえば、昔は長方形の板ガムが重ねられてパッケージングされた直方体の状態で売っているものが主流であったが、いまやすっかりボトルケースが売り場面積を占めている。

ところで「直方体」と「立方体」、どちらが正方形まみれのサイコロ型を指すのかがいまだにわからなくなる。なんとなく「直」のほうが真っ正直な感じがするし、一方で「立」というのは単に立体であるということを示しているにすぎない(つまり立体であればなんでも良い)ように見えるから、つい直方体のほうがサイコロだと思ってしまう。そして間違える。正直者はいつだって馬鹿を見るのである。

そのうえサイコロも転がりを良くするため角は微妙に丸くしてあるので、あれは正確にいえば立方体ではない。何から何まで虚構まみれの汚れた世界だ。

話を戻すが戻したところでたいした話じゃない。誰かが十万円くれるという話をしていたところがいつの間にか天気の話になって、諦めかけたところでまた十万円くれる話に戻ったらかなり嬉しいだろうが、ガムの話がガムに戻ったところで果たして喜ぶ人がいるんだろうか。ガム会社の人ですら喜ばないと思うが。

いやガムのおかげで一命を取り留めたくらいの人ならば、あるいは喜んでくれるかもしれない。ビルの屋上から飛び降りようとしたけれど、靴底の裏にガムがへばりついていて、うまく飛び降りることができず自殺を諦めた、とか。いやむしろ、ガムが綺麗に靴だけを取り残して、人間本体は綺麗にリリースされてしまうのか。屋上のへりに揃えられた靴の裏には、もれなくガムがへばりついている可能性。

いや本当に書きたかったのは、例のボトルケース状態になってから、ガムの「捨て紙」問題が発生していて、板ガム状のときには包み紙がそのまま「捨て紙」にトランスフォームするからいいけれど、ボトルケースだと包み紙というものが存在しないから、なんとなく付箋の束がボトルに放り込まれてるのってどうなの? という疑問である。

付箋は包むのが本業ではないうえに、サイズ的に一粒なら包めるが二粒だとはみ出がち、枚数的にも一粒ずつ食べる人には足りず、二粒ずつ食べる人にはやや余るという、万事「帯に短したすきに長し」状態。

そうなるともうこいつら根本的にガムを包み込むことに向いてないんだから、だったらちゃんと本職を呼び出そうよ、という気分になるのだが、ここに「コスト」という世知辛い概念を持ち込むと一気に「別にこのままでいいや」という気持ちに傾く程度の疑問。

まあ時にそんなことを思いながら食べているうちに、いつのまにか食べなくなって、そのまんままた十年とか食べなくなるんだろう。
食べても飲み込めず、吐き出さなくてはならないという宿命。だからガムは僕の中に定着せず、いつだってブームに終わる。


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【映画評】デヴィッド・リンチ/『アートライフ』

現世にデヴィッド・リンチほど「奇才」という呼び名がふさわしい人間はいないと思うが、どんな奇才にもルーツはある、ということが少しだけわかる一作。むろんどんな開示のされ方をしようと、その不可解な才能の全貌などわかるはずもない。しかし「わからなさ」の多い彼のフィクションに比べると、ほんの少しでも「わかる」部分、共感できる部分を見出せるというのは、ファンにとって結構な収穫であるかもしれない。

内容的には、長編デビュー作『イレイザーヘッド』に至るまでの半生をリンチの独白により振り返るもので、リンチにしては思いのほかストレートな構成である。そんなに緊張感のある作りではないので、さほど構える必要はないが、ところどころ印象的なエピソードや言葉が出てくるので油断もできない。

まずは冒頭で語られる以下の言葉が印象的である。この言葉はリンチの創作手法のひとつであると同時に、本作がこのタイミングでリリースされた意図の説明にもなっている。

たとえば絵を描くとか
ある種のアイデアを追求しようとする時
そのアイデアを呼び出し彩るのは過去だ
新しいアイデアに過去が色をつける

創作のプロセスを訊かれた場合、「過去になど興味はない」「過去の自分に縛られたくない」と語る向きは多い。まだ見ぬ新しいものを創るためには、過去を振り返るのではなく、未来だけを見据えなければならない、と。

そういう意味で、このリンチの言葉はかなり意外であるかもしれない。だが一方で、創作に必要な「想像力」というのは、「観察力」や「感受性」をベースとしているのも事実である。

創作者は過去に見聞きし感じた事柄をヒントに、その先の風景を思い描く。つまりそのイマジネーションの素材の大半は、今よりも過去に体験した出来事の中から見つけたり感じたりして収集したものである。

同じ意味で、創作の秘訣は「記憶力」であるとする人もいる。過去に観察したり感じたりしたことを、適宜記憶の彼方から引っ張り出せるかどうかが勝負であると。裏を返せば、記憶できない「観察」や「感知」など、少なくとも創作においては役に立たぬ、と。

しかしリンチの場合、過去はアイデアを呼び出すだけでなく、「彩る」ものであるとしているところが興味深い。さらに彼は、《新しいアイデアに過去が色をつける》とまで言っている。普通に考えれば、これは逆にしたほうが自然だろう。「過去のアイデアに、新しい色をつける」というのが一般的な手順である。

リンチの作品では、時制が逆転する、つまり過去が今よりも後に来る展開が頻出するが、ここで語られた創作作法も、どうやらその作品内容に通じているように見える。彼は誰も見たことのない手法でまだ見ぬ「未来」を見せつける作家でありながら、「過去」への執着が異様に強い人でもある。いやむしろ、「過去」をより良く描き出すために、斬新かつ「未来」的な手法を利用していると言ってもいいくらいに。

その他にも、リンチが元は絵描きであったこと、幼少期から父と一緒に工作をしていたこと、常に自身の才能を見出してくれる人に恵まれたこと、逆に言えば見出されるほどの何かを常に放っていたということ、なんでもない思い出語りが徹底して映像的であること、若き日のライフスタイルが案外「リア充」であること――などなど、「やっぱり」と腑に落ちる部分と意外な部分がひょこひょこ出てくるのが興味深い。

しかし自らの作品内で、あれだけ夜中に遊び歩く乱れた若者たちを大量に描いているわけだから、そりゃあ自分自身も「リア充」的なパーティー体験は結構あったはずだよなぁ、と妙に納得はいってみたり。それはまさに、豊かな過去が新しいアイデアに色をつける、といった按配なのかもしれず。

最後にもうひとつ、作中に出てくるリンチの印象的な言葉を引用して締めくくりたい。これはあらゆる創作者に、勇気を与える言葉であると思う。

全てをダメにする失敗から――
何かが生まれる時もある
よりよい作品がね
よく制御されたものは
ある意味 開かれてない
線引きをすることで表現がダメになる
時にはひどい失敗をしてかき乱されないと――
探しているものは見つからない

ビラ配ラーとの攻防

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受験や就活に限らず、この世のあらゆる場面では冷酷無比な「セレクション」が行われている。それは路上においても例外ではない。といってもナンパや勧誘の類ではなく、いやある意味勧誘の一種ではあるのだが、ビラ配りの話である。

駅前の路上なんかを歩いていると、ビラ配りの人つまりビラ配ラーが、あちらこちらビラを撒いている。その多くはティッシュや試供品がついていたりもするし、割引券として使えるものもある。あれをもらうのが正解なのか、もらわないのが正解なのか。それが僕にはいまだにわからない。

路上でビラ配ラーが接近してくると、こちらの脳内では、「これはもらうべきなのか? もらうべきでないのか?」という迷いが瞬時に巻き起こる。

いや正確にいえばむこうから接近してくるというよりは、むしろこちらから接近してしまっている場合が多いが、それはあくまでも向こうがこちらの目指しているルート上に配置されているからであって、決してこちらの積極性を意味しない。このへんは3Dマップ上を駆けるタイプのRPGにおける、モンスターとのエンカウントを思わせる。

現実にはRPGと違ってビラ配ラーを倒す必要はないし、むしろ倒したらゲームオーバーである。だが接近した際に、「いまこのビラをもらうことで、自分に役立つアイテムが手に入るのか? もしくは何らかの意味で自身のレベルアップにつながるのか?」という判断がこちらに働いているという意味では、そう遠い喩えでもない。

効率よく経験値を稼げるモンスターは、形式上は敵ではあるし実際に戦闘も起こるが、先のことを考えると貴重なスパーリング相手、つまり自分にメリットをもたらしてくれる味方であるともいえる。『ドラクエ』中盤のレベル上げが必要な場面で、何よりもはぐれメタルとの遭遇が待ち望まれるように。

とにもかくにも、こちらは歩きながらビラ配ラーを間違いなくセレクションしているわけだが、こちらが相手を選んでいる場合には、また相手もこちらを選んでいるというのが世の常で。実はこの「選んでいると同時に選ばれている」というインタラクティブな状態が、事態を相当ややこしくしている。

もちろん向こうにも選ぶ権利があるのは当然で、それは向こうが何らかの商品を売るためにビラを配布しているからである。商品であるからにはターゲットとなる消費者がおり、標的外の人間にビラを配るのは損失でしかない。女性向けの化粧品サンプルが、男に配られることはまずない。

つまり受け手であるこちらとしては、視野に入ったビラ配ラーに接近するまでの数秒のあいだに、「その商品あるいは商品情報が、自分の役に立つか、ゴミになるか」を判断しつつも、「向こうがそれを自分という人間に売りたがっているかどうか」をも同時に判断しなくてはならないのである。

たとえば後者をサボッた場合、ちょうどティッシュが欲しいと思ってティッシュをもらいに手を出すと、そのポケットティッシュの裏に入っている広告が明らかに女性向けの内容であったため、完全に無視されて差し出した手を引っ込めるタイミングを見失う、というような救いがたい悲劇が起こる。

さらにこのいずれの判断をも難しくしているのは、配布物の物理的な「小ささ」である。いやより正確に言えば、「安さゆえの小ささ」と言ったほうがいいかもしれない。

路上で配布されているものは、基本的に無料である。無料であるということは、やはりどうしても小さいものである場合が多い。そして小さいものというのは、圧倒的に視認性が低い。こちらはある程度離れた位置から、手を出すべきか出さざるべきかをいち早く判断しなければならないのだ。ここはハズキルーペCMの渡辺謙のテンションで、「世の中の配布物は、小さすぎて読めない!」と激怒してもいい。

あるいは1.5リットルのコーラを配っているのであれば、それがコーラであることはかなり離れた位置からでもわかる。それが欲しい人はもらいに寄ることができるし、欲しくない人もスルーの判断は容易だ。ただしこの場合、そんなに重くて飲みきれないものを誰が持って帰るのか、という別の問題は発生するが。

しかし配布されるのが3センチ四方くらいのビニール素材のパッケージであったりした場合、それが何であるのかを判断するのは非常に困難である。フリスクである場合もあれば、女性向け化粧水である場合もある。もしかすると薄さ自慢の避妊具であるかもしれない。

そんな乏しい商品情報を補佐する役割として、後方に何らかの幟旗を立てていたり、バドガール的に商品ロゴ入りの衣装を身に纏っていたりする場合もあるが、それは予算が潤沢で認知度の高いひと握りの企業に限られる。多くの場合、我々はなんだかわからない物を前に、瞬時の判断をくださなければならない。

先日駅前を歩いていると、何かしらのクーポン券を不意に受け取ってしまった。こちらに判断させる間もなく、何者かが死角からダイアゴナルな動きで忍者のように接近、気づいたら握らされていた。

それはコンタクトレンズの割引クーポンであった。その日の僕がコンタクトレンズを装着していたのは間違いない。振り返ってその忍者の様子を見ると、彼はどうやら誰彼構わず無闇に渡しているわけではないようだった。しっかりセレクションした上で、狙いをつけて渡している。

となると、彼は僕の目の中にあるコンタクトレンズの光を見抜いたとでもいうのか。カラコンでもなんでもない透明な反射光を。あるいは目の乾燥を防ぐ瞬きの回数などで、瞬時に判断する基準を持っているのか。だとしたら、瞬きの頻度でお馴染みの石原慎太郎あたりにも配ってしまうことになるのではないか。

あいつは只者ではないなと思いながら、ちょうどそろそろ買い足さなければと思っていたレンズのクーポン券に躍る「10%OFF」の文字にお得感を感じつつ帰宅。念のためその店のホームページで価格を調べてみると、「ネットからのご登録で全商品20%OFF!(その他クーポン券との併用不可)」の文字。

もらうと損をするクーポン券というものが、世の中にはあると知った。


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