泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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レトロで新しく、ダサくてお洒落、そして激しくも美しい謎の幽霊バンド「GHOST」がとにかく素晴らしい

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魅力的なものというのは、時に「二律背反」の要素を兼ね備えているものだが、このスウェーデンのメタルバンドGHOSTほどその両極が入り交じることで魅力を生み出しているアーティストも珍しい。

実は2016年、個人的に最も衝撃を受けたのが、以下に挙げるこの「Square Hammer」という曲だった。そこにはまさに、表題に書いたような様々に相反する要素が同居しているわけだが、そんな対立軸まみれのカオス的状況の中心には、おそろしくキャッチーで質の高いメロディがどっしりと腰を据えている。あらゆる要素が絡みあうことでひとつの世界観を描き出す、完璧な1曲と言ってしまってもいいだろう。

このMVを観ると、それ以前に気になることが多すぎて上手く曲に集中できないかもしれないが(その点についてはのちに触れる)、どうか一切の偏見を捨てて、楽曲自体の素晴らしさに耳を傾けてみてほしい。だってこれ、普通に凄く良い曲だから。いや全然普通ではないんだけど、なんの構えもなく聴いても良いという意味で。

◆「Square Hammer」/GHOST

冒頭の印象的なキーボード、不穏さと優しさを同時に感じさせるヴォーカルの声質と歌メロ、テクニカルではないが味わい深いギター・プレイと音色、ここぞという場面で決定的なオカズを繰り出してくるドラムの妙。

音色的には、SPIRITUAL BEGGARSあたりの「ストーナー・ロックが最も正統派ハード・ロックに接近した状態」に近いかもしれない。その一方でドゥーム的なうねりやゴシック・メタルの耽美的な香りも強く、陰鬱でありながら時にポップなメロディを発するあたりは、「鬱病ビートルズ」の異名を取るグランジの雄ALICE IN CHAINSをも彷彿とさせる。

たとえばこの曲なんかは、かなりALICE IN CHAINSっぽいかもしれない。

◆「Cirice」/GHOST

ちなみにGHOSTはスウェーデン出身で、ヴォーカルのパパ・エメリトゥス3世と「ネームレス・グールズ」と呼ばれる楽器陣(各人の名前はなく、謎の記号で示されるのみ)によるバンドである。

――などと真面目に紹介すると馬鹿を見るが、正直ご覧の通りのメイクやコスプレといったコンセプチュアルな設定に関しては、KISSや聖飢魔ⅡSLIPKNOTを経た今となっては特に新鮮味もない。

とはいえさすがに、楽器陣を「ネームレス・グールズ」とひとくくりにしてしまうあたりの雑さには笑ってしまった。ちなみに「グール」とは「墓をあばいて死肉を食うといわれる食屍鬼」あるいは「残忍な事をして喜ぶ人」という意味。いずれにしても「あんまりな扱い」だが、そこらへんの冷めた感覚は逆に新しいんじゃないかという気もしてくる。明らかに本人が本人の演じる世界観を信じていないというか、完全に俯瞰した上でやっているというか。

そういった「古くて新しい」感触、あるいは「(自分も含め音楽シーン)全体を俯瞰した」感覚というのは間違いなくこのバンドの魅力になっていて、それが彼らの音楽に時代やジャンルを越えた「深味」と、不可思議な「幅」をもたらしている。

そんな彼らの音楽性の「幅」を象徴しているのが以下に挙げる「He Is」という曲である。これがもう一聴してサイモン&ガーファンクルかと耳を疑うほどに美しく透明感に溢れた、異様に清廉性の高いバラードで、その不気味なバンドイメージとのギャップに唖然とする。しかし極端に清いものは、また同時に極端に怖いという感覚もどこか腑に落ちる。

◆「He Is」/GHOST

この曲を聴けば、GHOSTの魅力の中心にあるのはあくまでも楽曲のメロディであるということが、誰にでも明確にわかっていただけることと思う。やはりメロディというものには、ジャンルを越えて伝わる普遍的な魅力がある。

GHOSTの音楽は、左様につかみどころのない多面的な魅力を放っている。しかしだからこそ、あらゆる対立軸を丸ごと飲み込むことが出来るという、底知れぬ懐の深さを感じさせる。どうやら彼らは、単なる「スウェーデンジャガーさん」ではないのである。

Meliora

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tmykinoue.hatenablog.com

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短篇小説「天天天職」

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どんな仕事にもその職務内で発揮される「才能」というものがあり、逆にいえば人にはその「才能」を生かす「天職」というものがあるらしい。「才能」というのはけっして、スポーツ選手や芸術家にのみ求められるものではない。映画チケットのもぎりにすら「才能」というものはあるのだ。

ちなみに私はいま、学生を「天職」へと導くべく就活塾を開いている。そこで生徒に教えているのは、何も複雑なことではない。単に自らの「天職を知る」ということである。

だがこれが意外と難しい。就活生はみな「自己分析」をすることによって、そこから自分が「どんな職業に向いているのか」を探り当てようとするが、それだけでは充分ではない。

こう言うと、少しでも意識の高い学生はもれなく、「もちろん業界研究だって会社研究だってやってますよ」と答える。だがそれでも充分であるとは言えない。最も肝心なものが欠けている。

むしろ知るべきであるのは、「自分」よりも「業界」よりも「会社」よりも、「職種」のほうなのである。世の中には、多くの人が聞いたこともない「職種」というのが無数に存在している。そしてその「職種」が求めるものこそが「職能」であり、自分の「職能」が生かされる「職種」こそがその人にとっての「天職」なのである。

つまり「職種」を知らずして、「天職」を知ることはできない。

たとえば私の就活塾の卒業生には、誰もがその名を知る大手食品メーカーで「カップ焼きそばの湯切り担当」をやっている男がいる。

私はうちの塾が毎年行っている三泊四日の就活合宿の際、彼が夜食にカップ焼きそばを作りはじめるシーンを目撃した。もちろん夜食を作りはじめたのは彼だけではなく、他にもカップラーメンやカップうどん、そして同じくカップ焼きそばを作っている学生もいた。だがその中で彼だけが、圧倒的に鮮やかな「湯切り」を披露したのである。

当然、カップラーメンやカップうどんに湯切りなど必要ないため、ライバルは二~三人ほどであったが、それにしても凡人とは比較にならないほど絶対的にシャープかつ繊細な湯切りだったのである。それはもう、誰が見ても「才能」を感じざるを得ないレベルの。

だがその類の些末な「才能」は、一般にすぐさま忘れ去られることになっている。しかしどんな「才能」にも、それを行かす場所は必ずある。それを迷いなく確信しているというのが、あるいは私の就活ナビゲーターとしての「才能」であるのかもしれない。

考えればわかることだ。カップ焼きそばには「湯切り」という作業が必ず必要になる。そしてカップ焼きそばを作っている食品メーカーは、その開発段階において無数にカップ焼きそばを作り、試食するという試行錯誤のプロセスを繰り返しているはずだ。

ということはつまり、その会社にはカップ焼きそばの製作過程において、最も難易度の高い「湯切り」という作業を行うスペシャリストがきっと存在しているはずなのである。もしそのような専門家がいなかったとしても、間違いなく求められているはずなのだ。あるいは公然と求めてはいないにしても、いたらいたで「いてくれて良かった」と感じるに決まっているのである。つまりそこには、潜在的なニーズがある。

そう考えた私は、その「湯切りマスター」の学生に食品メーカーを受けることを強く薦めた。すると彼はカップ焼きそばを製造している大手食品メーカーのエントリーシートの特技欄に、「カップ焼きそばの湯切り」と素直に書いて応募した。実際に話を聞いたところ、彼の「湯切り」への興味と理解は凄まじく、すべてにおいて理論づけがなされていたため、これはいけると確信したのである。

すると面接時にはわざわざカップ焼きそばと熱湯とたらいが用意され、居並ぶ面接官の前で彼は例の鮮やかな「湯切り」を披露。同時に現状における「湯切り」システムの問題点や改善点を数十箇所指摘して面接官らを唸らせることで、見事採用を勝ち取ったのである。

彼が入社して以降、そのメーカーのカップやきそばの湯切り口が格段に進化したというもっぱらの評判である。やがて、シンクにすべてをぶちまける敗残者が皆無となる日も遠くないであろう。

私はいま、ちょうどそこのカップ焼きそばを食べてみているのだが、湯切り以前に肝心の麺もソースもおそろしく不味くて食えたものではない。世の中には、どうやら「重要な才能」と「どうでもいい才能」というのがあるらしい。

短篇小説「もはやがばわないばあちゃん」

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 がばいばあちゃんが思ったほどがばわなくなったのはいつの日からだろうか。

 がばいばあちゃんは、とにかくいつでも誰にでもがばうばあちゃんだった。イケメンにも不細工にも分けへだてなくがばうし、いったんがばうと決めたら老若男女も国籍も問わない。西に倒れている人あれば駆けつけてこれをがばうし、東に食い逃げ犯あれば持っている杖をためらいなく抛ってがばう。

 たとえば若手刑事とがばいばあちゃんがバディを組んだとして、拳銃を持った犯人が目の前に現れ、がばいばあちゃんの脇腹を撃ち抜いたとする。

 瀕死のがばいばあちゃんは自分を助けに駆けつけた若手刑事に対し、「ここはあたしにがばわず逃げな! あたしにがばうな!」と言って真っ先に若手刑事をがばうことだろう。

 しかし彼女による慈悲深いがばいは、時に若者の反感を買うこともあった。以前年若いロボット運転手の頬を強くがばった際、がばわれた少年は以下のような台詞を叫びつつ、がばいばあちゃんを射るように睨めつけたという。

「がばったね! 親父にもがばわれたことないのに!」

 だが優柔不断だった少年は、その日から目に見えて強くなったと言われている。

 そして近年突如として浮上してきたのが、がばいばあちゃんの「がばい有料化」疑惑である。がばいばあちゃんにがばわれた実の孫が、「がばわれたぶんのギャランティーが翌年のお年玉から天引きされている」という衝撃の事実を訴え出たのである。

 実際のところは「孫の両親が、がばいばあちゃんから孫に渡されるお年玉袋を事前にチェックし、その半分を抜き取って勝手に貯金に回していた」ということが後に判明したが、この事件以降、がばいばあちゃんのがばう回数が明らかに減少したというデータが明らかになっている。

 本音を言えばがばいばあちゃんだって、「がばうよりがばわれたい」という乙女心を、いまだ心の奥底に宿しているのかもしれない。

 だとするならば、近ごろのがばいばあちゃんのがばい不足あるいはがばい放棄を、強く責めることなど誰にできるだろうか。むしろがばいばあちゃんにがばわれることを心待ちにするばかりで、すすんで他人をがばうことを怠ってきた自らの過去をこそ恥ずべきではないか。

 今こそ「がばうとは何か」、その意味を改めて考えるべき段階に来ているのかもしれない。

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