泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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秋ドラマの変、秋ドラマが変

前クールのヒット作の副作用で、10月スタートの新ドラマが軒並み荒れている。

どんなジャンルであれ、ヒット作の直後というのは基本的に場が荒れるもので、それは誰もが2匹目のどじょうを狙うからである。しかしそれはどじょうではなくよく見ると蛇であったりして、手を噛まれる可能性が高い。毒蛇であれば局やタレントのイメージを傷つけ、視聴者のドラマ離れ、テレビ離れを招く致命傷になる。

今クールのドラマの傾向は、ひとことで言えば「コメディ偏重」である。もっと言えば「ユーモアのあとのせサクサク感」と「パロディのふりかけによる間にあわせの味つけ」である。これらはもちろん、『あまちゃん』の影響である。しかし『あまちゃん』に責任はまったくない。なぜならば、こういったユーモアのお手軽な解釈は、根本的な誤解に基づいているからである。そして多くの制作者(フォロワー)はヒット作を支えた根本原理ではなく、表層的なフレーバーにのみ影響を受ける。

おそらくは、「もっとクドカン的な小ネタも挟みつつ」「随所にパロディとか入れちゃって」といった局側からのリクエストが頻発しているのだろう。だがそれはユーモア重視の姿勢ではなく、むしろ軽視の姿勢である。でなければ、ピザにトッピングを追加するような気軽な要求などできないはずだ。ユーモアは上っ面にふりかけるのではなく、常に生地のほうに練り込まれる必要がある。

本来ユーモアとは根深いものである。出したくなくてもついつい出てしまうような、ある種「業(ごう)」のようなものでもある。ユーモアとは、その作者の根本的な物の見方、日常を切り取る視点から生まれるものであって、あとから追加注文できる類のものではない。もし注文するならば、作者の物の見方や根本的な考え方から長期的に作り直す必要があるが、それでも成功率は極めて低いだろう。それまでの人生観を丸ごと壊した後に再構築する必要がある。だが人間の根本はそう簡単に変わるものではない。

今クールのドラマの中でも、海設定である上、『あまちゃん』にも出演していた福士蒼汰に「じぇじぇじぇ!」と言わせ、松田翔太に不似合いなコメディ路線を要求する月9『海の上の診療所』や、純情イメージからはほど遠い北川景子に訛らせたうえで「春野ゆき」という「天野アキ」(『あまちゃん』の主人公名)を明らかに意識した名前をつけた『独身貴族』といったあたりの作品は、明らかに「あま意識過剰」である。そしてその「意識」は、恐ろしく表層的だ。

一方で前クールもうひとつの、さらなる大ヒットドラマ『半沢直樹』の影響は、『ダンダリン 労働基準監督官』の設定に薄く感じられるのと、堺雅人つながりの『リーガルハイ』で台詞がパロディに使われていたくらいで、意外とあまり感じられない。カメラワークや音楽による過剰気味な演出、そして決め台詞っぽいのが出た際に「そうかも」と思うことはあるが、そういや最近のドラマはみんなそうだったかも、とも思う。もしかしたらタイミング的に、その影響を作品に反映させるのが間に合わなかったのかもしれない。だとしたら次クールあたり危ないが。

と言いつつ、各ドラマの後半には、衝撃の土下座シーンが待ち受けているのかもしれない。松田翔太竹内結子草磲剛もキムタクも、そして今度はいよいよ堺雅人も、誰も彼もが震えながらの土下座オチ。誰が一番長く激しい土下座をかますのか。そんな最終回を、ひっそり期待してみる。

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