嫌なことがあったら、何かのせいにするのがいい。
とはいえ身近な誰かのせいにすると、八つ当たりで嫌われる。だから何かのせいにするのなら、相手は「アバウトな事象」や「遠くの誰か」が望ましい。
たとえば自分がモテない場合、それを何のせいにするのが良いのか。
《俺がモテないのは、スマホが普及したせい》
流行のせいにするのは、もっとも手っ取り早い方法である。
女の子たちは、俺を好きになることに費やすべき時間を、スマホに奪われている。俺のライバルはイケメンなどではなく、スマホという最新鋭の機械、いわばサイボーグなのだ。人間がターミネーターやロボコップに勝てないように、人がスマホなんかに勝てるわけがないじゃないかと。
「ではスマホ登場以前はモテていたのか?」というのは、もちろん禁句である。
《俺がモテないのは、活字離れのせい》
これもある種の流行、というか時代の流れ、ということになるだろうか。基本的に時代のせいにして、「生まれた時代を間違えた」と言い張るのは、自分を慰めるのに非常に有効な方法である。一方で、「生まれた国を間違えた」という論法は、社会のグローバル化とともに説得力を失いつつある。
俺の魅力は、本を読まない奴なんかにはわかるはずがない。これもまた、立派な理由である。
俺の良さが理解できないなんて、あいつらのリテラシーが低いんだ。これだから行間の読めない奴は困る。そういえば、エロ本も今やすっかりDVDの付録みたいになっちゃったしな。
この場合、活字の質が問われる。
《俺がモテないのは、消費税が値上げしたせい》
物価の上昇により、俺の相対的価値が下がってしまっている。もっともである。今や大根やごぼうより下に見られているかもしれない。
この考えでいくと、安い店に行ったほうが相対的にモテるということになるが、あながち間違いではないかもしれない。
《俺がモテないのは、口パクするアーティストが増えたせい》
あんな偽物ばかりが横行する社会では、俺のような本物がまともに評価されるはずがない。まったく隙のない理由だ。
よく知らないメーカーの、しかも質の低い「本物」など誰も欲しがらないという事実に、思い至らなければ。
《俺がモテないのは、蛭子能収再評価のせい》
これまでせっかくだめんずの道を突き進んで女性たちの母性本能をくすぐってきたのに、あんな「だめんず神」のような人が評価されてしまったら、中途半端なだめんずは、単に「キャラの弱い人」と見なされてしまうではないか。時代の犠牲者というにふさわしい。
だが、「じゃあお前は生まれ変わったら蛭子能収になりたいか?」と問われれば、誰もが首を縦に振ることをためらうはずだ。
「羨ましいけどなりたくない人」それが蛭子能収である。
以上、手あたり次第に何かのせいにしてみたが、どうだろう? どれも一理あるのではないだろうか。
いずれもたった一理しかないというのが、誠に遺憾ではあるが。