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不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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映画評『板尾創路の脱獄王』

期待していた方向性ではないが、素晴らしい。そういう意味では、感触として北野武の第一作に近いかもしれない。

ラスト3分のオチと、中盤の数少ない唐突な小ネタを除いては、笑いの要素は一切ない。つまりは、僕が事前に期待していたような、「笑いと正面から向き合った作品」ではまったくなかった。しかもこれは、「シュールな笑いを理解できる人ならば、かなり笑いどころを見つけられる」というような作品でもなく、わりと徹底して「笑えないように」できている。一方で、いくつかしかない笑える箇所は意外とベタな作りになっていて、さほど板尾らしくもない。つまり、観る側が普段の板尾の笑いを深く理解していれば笑える、というわけでもない。

なのにそこには笑いとは別種の面白さがたしかにあって、充分に満足度は高い。最近の板尾は役者業に比重を置きすぎていて、もっと笑いをやってほしい、なぜあまりやらないのか、と疑問を持っていた人は僕も含めてかなり多いと思うが、そういう人はこの作品を観ればかなり納得がいくというか、ある種の諦めがつくかもしれないし、つかないかもしれない。笑いの精度が下降傾向にあったたけしの場合とは違って、たまに見かける板尾の笑いはまったく精度が落ちていないどころかますます濃くなっている印象さえあるので、個人的にはより彼の笑いへの期待は高まっているところだが。

だからこそ当然のように、「笑い×映画」の化学反応を期待していたのだが、今回に関しては、明らかにそこでは勝負していない。たしかにラストの大オチへの前フリとしてそれ以前の部分を考えるのならば、「すべてを笑いに捧げた作品」と捉えることも可能だが、それはむしろあのオチに対する過大評価だろう。

前に『しんぼる』評のときにも書いたような気がするが、お笑い芸人が映画をやるならば、やはり「笑い」からは絶対に逃げないでほしい。そういう意味で、僕は作品としてはこちらを支持するが、姿勢としては松本人志のスタンスを支持する。…のだが、それは「笑い」に対するスタンスに関してであって、「映画」に対するスタンスに関しては逆になる。

同じ吉本芸人であり一緒にコントを作ってきた仲間であるという事実はもちろん、「閉所からの脱出劇」という意味においても、本作はどうしても『しんぼる』と比較されることになるだろう。そしてこの二作において決定的に異なっているのは、「先行作品へのリスペクト」という点に尽きる。すでに映画畑で活躍してきた板尾にはそれが充分にあり、その外部にいた松本にはそこがあまり感じられない。

それは松本が記者会見などでたびたび口にしてきた「誰も観たことがないものをお見せします」という言葉からも読み取れる。結果として『しんぼる』は、諸要素の組み合わせで表面上新しく見える部分はたしかにあったが、本質的に斬新な作品ではなかった。実際の中身は、冒頭「バグダット・カフェ」的なお洒落な雰囲気出しから入り、中盤は「Mr.ビーン」あるいは志村けん風の古典的「モノボケ」コメディ、そしてラストはひと昔前のシュールな低予算映画や深夜アニメの苦しいラストによくある「逃げ」のパターンという、どこかで観た要素の羅列でしかなかった。それがいけないと言っているわけではない。「まったく新しいものなどそう簡単に生み出せるものではない」と十二分に理解しているはずの彼ならば、それらの要素をもっと素材として大切に扱い、最高の調理方法で、まったく別の料理として提示することが可能だったのではないか、という気がしてならないのだ。そこに必要なのはただひとつ、謙虚さである。扱う素材の良さを最大限引き出すためには、まずはその素材へのリスペクトがなければならない。にんじんのおいしさをピンポイントで認めている人でなければ、おいしいにんじん料理は作れない(僕はにんじん嫌いなので無理)。

さて、話を本題に戻すときが来た(自分でそう決めた)。本作を作るにあたり、板尾はわりとオーソドックスな「脱獄」というテーマを選んだ。そしてインタビューの中で、『大脱走』や『パピヨン』など既存の脱獄モノからの影響を素直に認めている。そして彼は、この「脱獄モノ」というテーマから、まったく逃げなかった。本作は徹頭徹尾、まったく「脱獄モノ」としか言いようがないくらい脱獄ばかりが描かれている。普通であれば、ただでさえシンプルな設定なのだから、何か別の設定と組み合わせたくなるだろう。たとえば『しんぼる』のように。彼がそういった雑なミクスチャー作業を選ばなかったのは、まず何よりも先に、同系統の先行作品に対するリスペクトの気持ちがあったからだろう。そしてその素材の良い部分はそのまま使い、自分にできることだけをポイントポイントで付け加えようとした。それは一見してあまりクリエイティヴに見えない姿勢かもしれないが、質の高い作品を作る過程とは、実はそれくらい狭い幅の中で、的を絞って行われる作業であったりする。誰も食べたことがないからという理由だけで、きのこのソフトクリームを作って食べさせるようなにわか名産品的な発想は、真にクリエイティヴなものとは認め難い。

素材がありがちであればあるほど、当然細かい部分の工夫が必要とされることになる。本作において非常に効いているのは「昭和初期」という設定であり、「逃げる目的がわからない」という動機の謎である。これら二大要素が、この作品を特別なものにしている。前者は海外作品では味わえぬ独特な雰囲気と世界観を提示し、後者は「脱獄モノ」というジャンルに対する根本的な批評として機能している。

これまでの脱獄モノは基本的に、「そりゃ刑務所は嫌だから逃げたいに決まってるでしょ」という当たり前の動機を基礎に置いている。しかし本作の主人公である鈴木雅之(「田代まさし」ではない)の場合、徹底した無言と私利私欲の見えなさゆえ、脱獄したいようにはまったく見えないのである。普通に考えれば、彼はどう見ても模範囚、いやそれどころか、そもそも微罪さえ犯さないタイプだろう。作品全体に笑いの量が少なくとも退屈しない最大の要因は、この主人公の動機のわからなさが、話が進むごとにどんどん増してゆくという展開の妙にある。あとはやはり、作品の屋台骨をがっちりと支える國村隼の演技力と存在感。脱獄を繰り返す鈴木(板尾)を追い続けるという観客目線の重要な役柄に彼を据えたのは、作品としてのクオリティ向上に間違いなく繋がっている。追われる側だけでなく、追う側にも彼のように意味ありげな人物がいることにより、作品の深みが確実に増している。吉本芸人を多く使った配役であるにもかかわらず全体の質を維持できているのは、ことあるごとに國村が場面を立て直してくれているお陰だろう。

単純に面白い、というよりは、監督/役者としての板尾創路のポテンシャルを大いに感じさせる作品である。そういう意味では、これまでその潜在能力の高さばかりが取り沙汰されてきた板尾らしいといえば板尾らしい。そろそろ開花してほしいという気もするし、まだまだ咲きそうで咲かないまま可能性ばかり広げ続けてほしいという気も。二作目以降でお笑いを繰り出してくるのか、このままの方向で行くのか。北野武も散々迷いを見せてきただけに、かなり慎重になる必要はあるかもしれない。しかし次作がすでに楽しみだ。

【Link】
板尾創路の脱獄王 (2009):あらすじ・キャストなど作品情報|シネマトゥデイ
http://pia-eigaseikatsu.jp/title/152624/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD15440/index.html
『板尾創路の脱獄王』作品情報 | cinemacafe.net
http://woman.excite.co.jp/cinema/movie/mov15440/

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