泣きながら一気に書きました

不条理短篇小説と妄言コラムと気儘批評の巣窟

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短篇小説「紙とペンともの言わぬ死体」

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 繁華街の路地裏で、紙とペンを持った男の死体が発見された。彼は死ぬ間際、いったい何をそこに書きつけようとしていたのか。

 そこで真っ先に「遺書」と考えるのは、いかにも浅はかな素人推理である。なぜならば死体が着用していた上着のポケットからは、別に遺書が発見されているからだ。

 だがもしかすると、彼は遺書の続編を執筆している最中に死んだのかもしれない。アメリカのドラマに「シーズン2」がよくあるように、遺書にシーズン2があってもおかしくない。

 しかしドラマにおいてシーズン2が制作される条件は、基本的に「シーズン1がすでに大ヒットしている」場合に限られる。だが今回のケースにおいて、遺書の「シーズン1」は、彼が死んだ時点においてはまだ開かれてすらいない。もしも開かれていたならば、もちろんヒットしていた可能性は否定できない。かつて「遺書」の二百万部クラスの大ヒットを受けて、続編を出版した大物芸人もいるくらいなのだから。

 死体が遺す重要なメッセージといえば、いまひとつはダイイング・メッセージであろう。

 だがそうなると、本人は自殺を考えて遺書をあらかじめ用意していたものの、それを実行する前に別の誰かに殺された、という稀有なシチュエーションが必要となる。かてて加えて、どうせ書くなら紙にペンなどといったお気楽な筆記具ではなく、アスファルトに血文字であってほしいと誰もが願っているはずだ。説得力が段違いである。

 男が風流な人間であれば、辞世の句をしたためようとしていた可能性も捨てきれない。とはいえ辞世の句というのは、何事かを成し遂げた人間でなければ、単なる戯れ言にすぎない。《板垣死すとも 自由は死せず》これを凡人が書き遺したとしたら、「お前が言うな」と死後に一喝されるどころか誰からも完全にスルーされ、書かれた紙は迅速かつ適切に処分されることだろう。

 ならば男は、この紙にペンでいったい何を書きつけたかったのか。彼は死の間際に、とっておきの、一攫千金のアイデアを思いついたのだった。彼は自らが死を目の前にして初めて、「死ぬ直前に、何かを書き遺したいという人がいるかもしれない」という衝撃的な事実に気づいた。そして瞬時に、「死にかけの状態でも死ぬほど書きやすい紙とペン」の画期的なアイデアを思いついたのである。

 つまり男が死に際に書き遺したかったのは、「死にかけの状態でも死ぬほど書きやすい紙とペン」を作り上げるためのアイデアそのものであった。だが彼が持っていた紙とペンは、残念ながら「死にかけの状態でも死ぬほど書きやすい紙とペン」ではなく、普通のメモ用紙と普通のボールペンであった。なぜならばそれらは、まだ男の頭の中にしか存在しない代物であったのだから。

 ゆえに男は、メモ用紙にボールペンを走らせる直前に死に絶えた。手に持っていたそれら平凡な筆記具は「死にかけの状態だと死ぬほど書きにくかった」からだ。

 男は文具メーカーの商品開発部門に務める社員であり、ユーザーの意見を積極的に取り入れた新製品開発に定評があった。

 だが現在市販されている文房具の中に、死ぬ間際の用途を想定した文具など、おそらくひとつもないだろう。だとすればいま死にゆかんとする俺のように、死に際の人間の使用感を取り入れた、死に際用の文具をすぐに開発する必要がある。そのために、これからは死に際の人を見つけ次第、即座に紙とペンの試作品を持たせ、その使用感を死ぬ前に聴取する必要があるぞ!――男はそんな使命感に燃えながら、何も書き遺すことができないまま死んでいった。文具マンの鑑というほかない。
 

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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

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短篇小説「ALWAYS 二番目の銀次」

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 あまり知られていないが、あらゆるジャンルでコンスタントに二番手のポジションを獲得し続けてきた男がいる。男の名を銀次という。皮肉なことに、銀次はその出生からして二番目であった。だがそれは、いわゆる「次男」という意味ではなく。

 山に、老夫婦が住んでいた。ある日お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯にいった。すると川上から、どんぶらこ、どんぶらこと、大きな桃が流れて来たのだった。お婆さんは桃を家に持ち帰り、その桃からは桃太郎が産まれ、彼はのちに鬼退治を遂行するなどしてレジェンドとなった。

 しかし実際には、川上から流れてきた桃はひとつではなかった。お婆さんが立ち去ってまもなく、二番目に流れてきた桃があった。その二番目の桃は誰にも拾われることなく、永遠のどんぶらこを繰り返して海へと流れ着いた。そして大海のど真ん中で、内圧により自力で割れた。そうして産まれたのが銀次であった。

 だが銀次が産まれた海は鬼ヶ島からはほど遠く、鬼退治に向かう動機など皆無であったから、彼に注目する者など誰もいなかった。そしてここから、彼の「二番目の人」としての数奇な人生が始まった。

 割れた桃をボート代わりにしてなんとか陸へ上がった銀次は、そこにいた大人たちに適当なパンツを穿かされ、ちょうどそこで開催されていた謎のマラソン大会に参加することになる。

 それは動物だらけのマラソン大会で、スタートまもなくウサギがトップを快走。しかし余裕をぶっこいたウサギが途中で昼寝をかましているあいだに、ゆっくりと、しかしコンスタントな走りで追い上げてきたカメに抜かれ、カメが逆転優勝を飾るという、なんとも教訓めいた劇的展開を見せた。

 いっぽう銀次は、普通に走って二位だった。なんならカメがウサギを抜いた際に、銀次も一緒に抜かれていた。しかしウサギのような問題行動も起こしていなかったため、二位の銀次が注目を浴びることは一切なかった。一位のカメだけでなく二位の銀次も、大会新記録ではあったのだが。しかも産まれたてである。

 銀次は走るのがそこそこ得意であった。青年になった銀次は、ある朝、街中をジョギングしていた。すると彼を猛烈なスピードで追い抜いていく半裸の男がいた。銀次は男にぴったりついて夕刻まで走り続け、抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げたが、最終的に男は刑場のような場所へと吸い込まれていってしまったため、銀次は路上に取り残された。これも事実上の二位ということになるのだろうか。

 銀次は警備員を振り切って刑場へと走る半裸男の背中に名を尋ねた。男はただひとこと「メロス」と答えた。銀次には走る動機も使命感もなにもなかった。詳しくは訊いていないが、男にはその二つがとても強くあるように見えた。

 メロスと名乗る男とのレースで心に空虚さを感じた銀次は、ほどなく出家した。当時、巷では「とんちの利く僧侶」が評判を呼んでいたため、それに対抗して銀次は「マジックのできる僧侶」として売り出すことになった。

 やがて銀次はその評判を聞きつけた将軍に呼び出され、屏風に描かれた虎を縛り上げろと申しつけられた。実は銀次より先に、とんちの利く小僧に同じお題を出したのだが、「将軍様が虎を屏風から出してくれないと、縛り上げることはできない」などと屁理屈をこねて言い逃れに終始したという。つまり銀次は、二番目に呼ばれたというわけだ。

 しかし銀次はマジシャンなので、とんち小僧と違って本当に屏風から虎を出せた。飛び出したリアルな虎は暴れ回り、将軍に噛みついて松島トモ子クラスの大怪我を負わせた。

 どう考えてもとんち小僧よりマジシャン銀次のほうが凄いことを成し遂げているのだが、血が出てしまったため銀次の部分は番組上オールカットになってしまい、将軍の怪我も詳細は伏せられた。どうやらバラエティ番組の企画であったらしい。結果、唯一オンエアされた小僧のとんちが大々的にフィーチャーされ、彼は一躍スターダムにのし上がった。小僧の名を一休という。

「俺は何をやっても二番目で、誰からもまったく評価されることがない。どうせ俺なんて……」そう思い悩みながら銀次が浜辺を歩いていると、一匹のカメが子供たちにいじめられている場面に遭遇した。

 銀次はとっさに、マラソンで鍛えた肉体と修行により身につけたマジックを駆使してカメを救出。するとカメは何かお礼がしたいと言い出し、銀次を乗せて海に潜ると、海底にある城へと誘った。城内の宴会場で歓待を受けたほろ酔い状態の銀次は、カメによって再び陸へと送り届けられた。

 翌朝、浜辺で目覚めた銀次は、自分がもっともらしい木箱を大事そうに抱えていることに気がついた。赤い紐をほどいて木箱を開けると、どういうわけか中には何も入っておらず、もちろん白い煙がもくもくと立ちのぼるようなこともない。特に何も起こらなかった。

 銀次が海底への行き帰りにカメから聴いた話では、カメが人に助けられたのは二度目の話であり、最初にカメを助けたのは太郎というありふれた名前の男であったという。

「きっとこの箱は使いまわしで、その太郎とかいう不届きな輩が中のお宝を全部持っていった抜け殻を、俺は渡されたに違いない」

 箱はたしかに使いまわしであった。二番目のほうが良いことも、どうやら世の中にはあるらしい。


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耳毛に憧れたって駄目―悪戯短篇小説集 (虚実空転文庫)

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短篇小説「フクロウこそすべて」

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 この世のすべてフクロウになったのは、いつからだったろうか。

 ある日、意中の女性とデートしていた私は、一件目の盛りあがりを受けて、彼女を二件目に誘った。だがそこで彼女が発した言葉に、私は衝撃を隠せなかった。

「ごめんなさい、今日はウチにフクロウが来てるの」

 私はフクロウに負けた。

 翌朝、そんな哀しみを胸に出社すると、部下の新入社員が大遅刻してきたので、私はいつも以上に厳しく叱りつけてしまった。そこで遅刻の理由を問いただすと、部下は悪びれることもなくこう答えたのだった。

「家の前に傷ついたフクロウが倒れていたので」

 こうして、この世のすべての「理由」がフクロウになった。今や「理由あり物件」といえば、かつてフクロウが自殺した物件のことだ。

 そもそもこのような新入社員をなぜ入社させたのか。そう考えた私は人事部へと赴き、彼が我が社を受ける際に提出したエントリーシートを見せてもらった。その志望動機欄には、以下のように記載されていた。

《御社の仕事を通じ、全フクロウを幸せにしたいので》

 我が社はれっきとしたIT企業であり、動物を扱う業務はない。だが人事課長に確認したところ、他の就活生もほぼ同じ動機を書いてきたとのことだった。食品、自動車、テレビ局など他業種の友人に訊いても、今どきはそれが常識だと鼻で笑われた。

 家に帰ってテレビを観ていると、近ごろ巷を賑わしている連続詐欺事件の犯人が逮捕されたというニュースが報じられていた。その犯人が語った犯罪の動機が、テロップで画面下に表示されている。

「遊ぶフクロウほしさに」

 こうして、この世のすべての「動機」もフクロウになった。目の前にフクロウをぶら下げられなければ、もう誰も動かない。

 街を歩けば、誰もがフクロウファッションに身を包んでいる。ファッションに疎い私は、今の今までそんなことにも気づいていなかったらしい。そのスタイルは「フクラー」と呼ばれているようだが、どこがどうフクロウなのかは私にはわからない。

 友人の娘の話では、美容室へ行くと、若者はみんなこういって髪型を発注するという。

「フクロウみたくしてください」

 どうりで街中に富士額があふれているわけだ。美容整形外科においても、同様の注文があとを絶たないという。

 こうして、この世のすべての「目標」までもがフクロウになった。

「フクロウとは何か?」あの日から私は、自身にそう問い続けている。

 もしかすると、私の考えているフクロウと、万人がイメージするフクロウは、まったくの別物なのかもしれない。だが富士額であるというところは、どうやら合致しているようだ。「富士額の何か」――今のところ私には、残念ながらそれ以上のことを断言することができない。

 すべての「理由」が、フクロウになった。
 
 すべての「動機」が、フクロウになった。

 すべての「目標」が、フクロウになった。

 つまりすべてがフクロウになった。 

 フクロウが絶滅してから、すでに百年が経過したというのに。


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